韓・中、経済・安保の実益を探して33年…慶州で「心の錠」を開けられるか

投稿者: | 2025年8月22日

◇大韓民国「トリガー60」㉓ 1992年8月韓中国交正常化

韓国と中国が手を取り合ってから1世代が過ぎた。33年前の1992年8月24日、韓国と中国は公式に国交を正常化させた。「竹のカーテン」の共産国家だった中国が韓国のパートナーとなったのだ。その後、両国は経済や安保など急変する北東アジア情勢の中で「近くて遠い」せめぎ合いを繰り返してきた。

 振り返れば、両国の経済協力は飛躍的に発展した。韓国の対中累積黒字(1993~2022年)は6900億ドル(約102兆円)を超え、1000兆ウォンに迫る。中国もその間に「G2」へと台頭した。安保の成績表も悪くはない。経済発展のために安定を求める政策のおかげで、これまで北東アジアは平和を維持してきた。1992~2024年の間に韓国人約7571万人が中国を訪れ、中国人訪韓客は約6390万人を記録した。今や中国は韓国の未来とは切り離すことのできない決定的な変数となった。

両国関係の始まりは「行事」だった。行事は人を集める。文化大革命(1966~76)を終え、改革開放に踏み出したものの、経済をどう立て直すか悩んでいた中国も行事を活用した。80年代に入り、シンガポールに国際フォーラムの開催を依頼し、中国がぜひ会いたいという韓国経済界人の名簿を渡したという。そうした方法で韓国の経験を学んだ、と鄧小平の「経済の師」呉敬璉は回想している。呉敬璉は特に韓国の金満堤(キム・マンジェ)元副首相に感謝の意を示した。韓中の国交正常化もまた行事によって促進された。91年11月、ソウルで開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力)長官級会議が舞台だった。当時、中国の銭其琛外交部長は韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領に直接会い、韓国の国交正常化の意思を確認した。盧大統領は「韓国西海岸と中国山東半島の間では犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど近い」と述べ、国交正常化の意思を表明した。

◇「水が流れれば自然と溝ができる」

銭其琛は後日、回顧録『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』(原題『外交十記』)で、新羅(シンラ)ホテル滞在中、深夜に訪れた朴哲彦(パク・チョルオン)体育青少年部長官が金の鍵二つを取り出し、韓中関係の大門を開けようと語った逸話も紹介している。国交正常化のために多くの人々が動いていたことを物語っている。華僑出身の韓方医ハン・ソンホや韓国系米国人教授チョ・イジェらも盧大統領の秘密の伝令として活躍した。

SKは中国の「南朝鮮領導小組」とのチャンネルを通じて国交正常化の“呼び水”役を果たした。このルートを通じ、韓中間の貿易事務所設置など主要懸案に対する中国政府の立場が伝えられた。注目すべきことは、中国が87年ごろすでに南朝鮮領導小組を設置し、韓国との国交正常化に備えていたという点だ。国交正常化はある日突然行われたわけではない。韓中の国交正常化の水路を開いた2つの事件がある。一つは83年5月の中国民航機事件だ。111人を乗せて中国瀋陽を離陸し上海に向かっていた中国旅客機が空中でハイジャックされ、春川(チュンチョン)に不時着した。犯人6人は韓国で1年余り服役した後、追放という形で望んでいた台湾へ渡った。残りの乗客の温かい帰国の道を韓国が整えたことに対して中国は謝意を示した。85年3月には中国北海艦隊所属の魚雷艇で艦上反乱が起き、この艦が群山(クンサン)沖に漂着する事件が発生した。

当時韓国は、2人の反乱兵と魚雷艇を共に中国に送還するという強硬措置を取り、中国が韓国を評価するもう一つの契機となった。国家間の雪解けにはスポーツが大きな役割を果たす。84年、中国は昆明で開催したテニス国別対抗戦「デビスカップ」に韓国代表チームを招き、86年ソウルアジア競技大会、88年ソウルオリンピック(五輪)にも参加する。「水が流れれば自然と溝ができる」(水到渠成)という言葉のように、国交正常化は時間の問題となっていた。

銭其琛は92年3月中国全国人民代表大会の記者会見で「韓国との国交正常化に時間表はない」と述べ、可能性を示唆した。韓国では92年4月末、盧大統領の国家安保補佐官キム・ジョンフィの指揮のもと、中国との秘密国交正常化交渉のため「トンヘ事業」チームが組織された。その後の歩みは速かった。韓中は92年5~6月に三度の予備会談と7月に一度の本会談を経て、8月24日に公式に国交を樹立することを宣言した。

手を打ち合わせてこそ音が鳴る。韓中双方には国交を結びたいという強烈な欲求があった。安保と経済が主な理由だった。盧泰愚は大統領当選直後の87年12月、任期内の韓中関係正常化に対する希望を明らかにし、北方外交を積極的に推進した。中国とソ連はもちろん、東欧圏諸国との関係改善を通じて韓半島(朝鮮半島)の平和体制を構築し、最終的には統一の雰囲気を醸成しようという野心だった。

経済的にも、さらなる飛躍のためには巨大市場・中国が必要だったことは言うまでもない。中国にとっても経済的理由が先行した。鄧小平は85年に「中韓関係の発展は必要なことだ。第一に、商売ができて経済的に良いし、第二に、韓国と台湾の関係を断絶させられる」と話した。国際環境の変化も国交正常化を後押しした。世界的には冷戦構図が解体し、中ソ関係も改善され、中国がソ連を牽制(けんせい)するために北朝鮮の顔色をうかがう理由が減った。

当時の朝日、朝米間の活発な接触も中国を刺激した。特に米国が89年天安門事態(=天安門事件)以降、中国への制裁に乗り出したことが決定打となった。中国は打開策を探るため、隣接国に対する大規模な善隣外交を展開し、90年代初めには実に20余りの国との関係正常化を実現させた。韓中の国交正常化もまたその流れに乗ることになった。冷戦解体という国際安保環境の変化の中で、韓国の北方外交と中国の改革開放政策が重なり合い、国交正常化が実現した。

その後、97年のIMF通貨危機までの5年間が、おそらく韓国が中国との数千年の歴史の中で最も厚遇された時期ではなかっただろうか。94~95年の2年間で江沢民国家主席など権力序列1~3位が全員韓国を訪問した。中国では韓国を学ぼうというブームが起きた。しかし通貨危機を経て韓国モデルの人気はしぼんだ。2000年以降は愛憎が交錯する。最初の葛藤は経済分野で始まった。

韓国が中国産冷凍ニンニク900万ドル分に対して関税率を引き上げると、中国は韓国の携帯電話やポリエチレンなど5億ドル分の輸入を暫定禁止した。2002年韓日ワールドカップでは国民感情が傷ついた。韓国がベスト4に進出すると、中国中央テレビの解説者が審判買収云々という暴言を吐いた。2003年には、中国の高句麗史「横取り」と認識された東北工程が知られるようになり、韓中間に歴史戦争が勃発した。

◇天安艦爆沈などで表れた中国の北朝鮮擁護

2005年、ソウルの漢字表記が「漢城」から中国語の発音に近い「首爾」に変更されると、韓中間で文化の元祖をめぐって論争が起こった。2010年の北朝鮮による韓国哨戒艦「天安(チョナン)」事件や延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件を経て、安保分野でも衝突することになった。中国の北朝鮮擁護が問題だったのだ。このため外交官の間では「このような両国関係がどうして戦略的パートナー関係なのか」という自嘲的な批判まで出ていた。

朴槿恵(パク・クネ)大統領が中国の習近平国家主席の招待で中国の戦勝節行事に出席し、天安門城楼に立った2015年9月は蜜月期だった。しかし長くは続かなかった。2016年1月の北朝鮮の核実験の際、中国の生ぬるい対応に失望した韓国はTHAAD(高高度防衛ミサイル)配備決定を下し、その後両国関係は下り坂を歩んだ。2019年の香港デモで中国が示した強硬な鎮圧によって韓国の若者の心は離れ、2020年に本格化したコロナ禍で韓中の距離はさらに遠ざかった。韓国国民の約70%が中国に対して否定的な認識を持っているのが現実だ。韓中関係を反省するという次元で、しばしば国交正常化当初の初心への言及が見られる。しかし問題は、心の隔たりを縮められなかったという点だ。米中および韓中関係が悪化したのは、韓米が中国でこれ以上収益を上げることが難しくなったこととも深く関連している。

さらに米中が新冷戦の雰囲気を醸し出し、韓中関係にも悪影響を及ぼしている。韓中の国交正常化を促進した経済と安保の要素が、もはや友好的ではない環境へと変わったということだ。ひと言でいえば、挑戦の時期を迎えたということだ。この時期を打破する契機もまた行事にある。今年10月末に慶州(キョンジュ)で開かれるAPECに視線が集まっている。習近平主席の出席が予定されている行事だ。THAADに対する報復「限韓令」の完全解除による両国関係の新たな正常化が急がれる。韓中は嫌だからといって引っ越せるようなものではない、永遠の隣国だからだ。

ユ・サンチョル/中国研究所所長

2025/08/22 13:59
https://japanese.joins.com/JArticle/337884

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)