「経済が崩れる」という全斗煥の心を変えた…国民年金の紆余曲折(1)

投稿者: | 2025年11月7日

積立金1400兆ウォン(約150兆円、国内総生産の50%水準)、加入者数2198万人(10月末基準)。国民の老後生活保障の軸、国民年金の現在の姿だ。1988年に導入された国民年金は日本公的年金(2200兆ウォン)、ノルウェー国富ファンド(2000兆ウォン)に次いで世界の年金基金と国富ファンドのうち3番目に大きい規模だ。その間、国民年金は増える老齢層の所得安全網の役割をしてきた。特に第1次ベビーブーム世代(55~63年生まれ)約700万人の主要老後所得源となっている。国民年金は国内資本市場にも大きな影響を及ぼしている。国民年金の国内株式投資額は192兆ウォン(8月末基準)であり、国内上場企業の平均持ち株比率は6%にのぼる。国民年金は企業の経営過程で意思決定に介入し、大きな影響力を行使している。

国民年金制度は導入の議論から施行まで紆余曲折の連続だった。

 「年金制度を導入すれば貯蓄向上だけでなく国家財政のための投資財源調達にも大きく寄与すると判断される」。

1972年11月30日の青瓦台(チョンワデ、大統領府)。朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領と経済部処の長官が集まった中、韓国開発研究院(KDI)の金満堤(キム・マンジェ)院長が年金制度導入の必要性を報告した。朴正熙院長は十月維新の直後、「維新に対する評価は輸出100億ドル達成にかかっている」とし「すべての政策の焦点をこれに合わせて集中するべき」と強く指示した。特に「重化学工業の財源確保のために格別の対策を講じるべき」と注文した。

都市への人口集中、核家族化による人口構造の変化が速くなり、伝統的な家族扶養体系では増える高齢者人口の扶養が難しくなった時期だった。社会保障年金制度の導入が必要だった。しかし当時の国内政界では、欧州など西欧圏で施行する福祉制度は経済的に生産性を高めることができない「消費性政策」とし、否定的な認識が多かった。経済開発が急がれる韓国の状況で導入は時期尚早ということだった。金院長はむしろ「年金制度を導入すれば輸出力量を高める投資財源の確保が容易だ」という論理で説得した。長期間の討論の末、朴正熙は年金制度導入のための具体的な案を用意するべきと述べた。

◆86年の欧州訪問の帰途に決定

1年後の73年12月、「国民福祉年金法」が国会本会議を通過した。しかし中東戦争で第1次石油ショックが発生し、74年1月に緊急措置が発動され、年金制度の施行は無期限延期となった。2015年に国民年金公団が出した『実録、国民の年金』によると、議論がまた始まったのは全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の時だ。

81年1月の新年最初の国務会議。KDIの金満堤(キム・マンジェ)院長は国民年金の導入を含む「福祉国家建設のための基本構想」報告書を持ってまた青瓦台に入った。報告を受けた全斗煥(チョン・ドゥファン)は特に論評をしなかった。内心、大統領の反応を期待していた金院長は失望した。その後もKDI側は1、2回ほど国民年金関連の報告書を作成して青瓦台に提出したが、成果はなかった。84年1月にはKDIに新たに赴任した安承喆(アン・スンチョル)院長が新任のあいさつのため青瓦台を訪問し、国民年金をまた報告した。全斗煥は「韓国でこのようなことをすれば経済が崩れる」と不満を表したという。2年後の86年4月21日、欧州4カ国訪問を終えた全斗煥が空軍1号機に乗って帰途に就いた。

飛行機がアルプス上空を通過する頃、随行していた金満堤副首相兼経済企画院長官と司空壱(サゴン・イル)青瓦台経済首席秘書官が慎重に話を始めた。

「閣下、聞きたくない話かもしれませんが、我々が訪問した英国・ドイツなどが富国である理由は引退者が老後に貧困を心配せず安定した生活を送っているからではないでしょうか。我々の経済もかなり成長したので、国民年金制度を通じて国民が老後の貧困を心配せずに生活できるようにする時ではないかと思います」。

黙って話を聞いていた全斗煥が口を開いた。

「本当に根気強い人だ。私はそれではいけないと言ったのに。分かった、導入を検討してみなさい」。

2025/11/07 15:19
https://japanese.joins.com/JArticle/340762

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)