1600年ほど前、新羅の首都、慶州(キョンジュ)にあった王宮「月城」に駐留していた高句麗軍の兵士たちの記念碑なのだろうか。それから200~300年後、高句麗の文字の影響を受けた統一新羅の人たちが作った碑石なのだろうか。
考古・歴史学界が、月城から出土した碑石の残片の正体をめぐり騒然となっている。中国東北地方の瀋陽にある高句麗の広開土王碑が背景にある。新羅の地で高句麗人がこの碑石の「新羅版」を作ったのかどうかについての敏感な議論が起こりつつある。
2020年12月11日、国立慶州文化遺産研究所のチャン・ギミョン学芸員は、6年間にわたる月城の垓子1~3号の発掘作業を終えようとしたとき、驚くべき遺物を一つ発見した。垓子(堀)の進入部にあたる遺跡の東側にある排水路内のコンクリートの構造物を撤去し、土を掘り返していたところ、4行にわたり隷書体の漢字12字が刻まれた手のひらほどの大きさの欠損した石碑の断片を見つけたのだ。この破片は、最も広い箇所を基準にすると、横16.47センチメートル、縦16.58センチメートル、厚さ13.67センチメートルで、重さは約2.7キログラムに過ぎなかった。誰かみても、重厚かつ精巧な碑石の一部であることを直感できた。
しかし、決定的な限界があった。時代別の文化的特徴が明確にわかる特定の遺物層から出たものではなく、考古学的に時期がまったく分からない、いわゆるかく乱層から出土したためだ。しかも、非常に小さくて文字数も少なく、当初は新羅人が作ったか、後代の高麗・朝鮮時代に作られた碑石の断片だろうと漠然と推測されていた。しかし、2024年末の発掘報告書の刊行を控え、出土した文字資料の研究と執筆を担当していたチョン・ギョンヒョ学芸研究員は悩んでいた。他の新羅の碑石にはまったくみられない、整然とした隷書体の文字が刻まれた碑石の断片の尋常ではない雰囲気が、どうしても頭から離れなかった。
そこで、2024年8月20日、新羅史の権威である慶北大学のチュ・ボドン教授や、書芸史の専門家である東北アジア歴史財団のコ・グァンウィ研究委員と円光大学のチョン・ヒョンスク研究教授らを慶州の研究所に招き、鑑定と判読を依頼した。結果は驚くべきものだった。刻まれた文字が5世紀高句麗の広開土王碑の隷書体に似ていることが判明したのだ。判読された字を調べたところ、確実なのは「貢」「白」「渡」「不」「天」の5文字だったが、いずれも広開土王碑に登場する厳正な隷書体の漢字だと推定されると専門家らは指摘した。隷書体は新羅の碑文や文字資料にはまったくみられない字体であり、広開土王碑などの高句麗の金石文で主に使用された書体だ。
研究所側は、碑片を構成する石塊がどこで採取されたのかも分析したところ、慶州南山(ナムサン)のアルカリ花崗岩である事実が判明した。このような点を総合すると、結論は明らかだった。碑片は、隷書を駆使できる人物が南山で採取した花崗岩を使って文章を刻んだものだ。ならば、その人物は新羅人なのか、高句麗人なのか。碑片の出土層が不明なうえ、碑文の内容も断片的であるため、作成時期を具体的に把握することはかなり難しい。しかし、明白かつ驚くべき手がかりは存在する。碑石片の文字は、広開土王碑の字体に酷似しているだけでなく、広開土王碑の銘文に主にみられる文字が大半だということだ。チュ・ボドン教授は「広開土王碑の文字が主に出てくる碑文を、数百年後の新羅人が書いた可能性は数百万分の1の確率に近い」と断言した。
驚くべき成果は昨年にも続いた。2024年の判読成果をみていた研究所のキム・ドンハ専門委員が、数年前に国立博物館のeミュージアム検索システムで確認した日帝強占期(日本による植民地時代)に月城で出土した銘文碑石の断片(国立慶州博物館所蔵)の画像をチョン学芸員にみせ、比較するよう指示したことが、さらなる発見のきっかけになった。昨年6月24日、国立慶州博物館で専門家による諮問会議を開き、2つの碑石断片を接合し、3D立体スキャン装置で読み取って調べたところ、断面が完全に一致し、それぞれ刻まれた文字も互いにつながる事実が明らかになったのだ。博物館が所蔵していた碑石断片は文字を刻んだ銘文の裏面の墨文字の記録によって、新羅遺産研究の先駆者だった在野学者のチェ・ナムシク(1905~1980)が、1937年に月城西側で発見して収集した遺物であることが確認された。その後、統一新羅時代のものとして所蔵品カードに記録され、80年あまりの間、収蔵庫に埋められていた遺物だったが、昨年の研究所と博物館の共同研究とスキャン作業を通じて、2020年に月城で出土した碑片とは本来は一つの本体を構成していた碑石であることが、奇跡的に判明した。
完全な文章が確認されたわけではないが、この2つの碑石断片は、今後の学界の検証結果によっては、韓国古代史を塗り替える核弾頭級の遺物になる可能性が高いという見通しが出ている。高句麗の石碑だと公認される場合、広開土王碑にだけ出ている5世紀高句麗の新羅南征の記録を確実な史実として立証する具体的な実物資料が、初めて新羅王宮の遺跡で確認されるという画期的な意味がある。高句麗の南征は400年ごろ、百済・伽耶・倭の連合軍に包囲された新羅の救援要請を受け、広開土王が5万の大軍を送り、任那加羅の従拔城(現在の金海(キムヘ)・釜山(プサン))まで破竹の勢いで進撃して、伽耶と倭の軍隊を撃退し、新羅を数十年間にわたり属国としたという内容が骨子だ。関連の内容は「三国史記」などの文献史料には記載されておらず、広開土王碑の碑文にだけ出てくる。このような歴史的状況を考慮すると、月城遺跡で高句麗系統の文字を刻んだ石碑片が出土したということは、計り知れない意味をはらむ発見として注目するに値するという評価が示されている。さらに、碑片の細部をみると、広開土王碑によく登場する「不」「渡」「貢」の文字が広開土王碑に特有の高句麗風の隷書体をそっくり真似た形式で刻まれている。このような点から、新羅に進出した高句麗人の記念碑である可能性がさらに高まったとする見方が出ている。高句麗軍が慶州を事実上占拠・駐留し、新羅を属国化した当時の状況を推し量る手がかりになるとも推測できる。
もちろん、碑片の表面を水で洗い流して整えただけの石の状態は良好で、自然石に刻まれた広開土王碑や忠州碑、2009年と2012年それぞれ発見された中国東北地方の白巌城跡の碑石や集安碑のような5世紀高句麗の碑とは、物理的材質感が異なっており、7世紀新羅のものと考えるのが妥当だとする反論(国立慶州博物館のイ・ヒョンテ学芸員)も少なからず提起されている。11日に国立慶州博物館では、昨年までに碑石断片を判読した学者らを含む文字史・新羅史・高句麗史の専門家らが集まり、この碑石断片の正体をさぐる討論会(フォーラム)を開催する。討論の結論はどうなるのだろうか。はたして高句麗と新羅の交渉の新たな歴史を書くことになるのだろうか。
2026/02/03 05:00
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/55354.html