「清渓川(チョンゲチョン)貧民の聖者」と呼ばれた日本の社会運動家、野村基之牧師が94歳の年齢で死去した。
プルメ財団によると、野村氏は悪性リンパ腫の診断を受けて入院していたが、26日に死去した。故人の意に基づき葬儀は営まれない。
1931年に京都で生まれた野村氏は半生を韓国に対する奉仕に注力した。1958年に初めて韓国を訪問した当時に目撃した日帝の植民支配の残滓と韓国戦争(朝鮮戦争)の後遺症がそのきっかけになった。その後、1973年にまた韓国を訪問した当時、清渓川の貧民街を訪問して衝撃を受けた野村氏は、故諸廷坵(チェ・ジョング)議員と共に本格的に貧民救護に取り組んだ。日本、ドイツ、ニュージーランドなどで集めた寄付金のほか、母から譲られた東京の自宅まで売って託児施設の建設などを支援した。
野村氏が韓国を60回余り訪問して清渓川の貧民のために伝えた資金は7500万円、約8億ウォンにのぼる。野村氏は母から社会正義運動をどうに実践するかを学んだという。野村氏の母、野村かつ子氏は日本国内での消費者運動で2005年にノーベル賞候補に挙がったこともある。
野村氏は救護活動と共に当時の韓国の風景を写真で記録する作業もした。野村氏は清渓川と東大門(トンデムン)市場、九老(クロ)工業団地など韓国の各地を歩き回って残した写真資料約2万点を2006年にソウル歴史博物館に寄贈した。2013年にその功労が認められ、ソウル市名誉市民に選ばれた。野村氏は寄贈した写真について「1970年代の厳しい時期に撮影した写真を韓国人に返すことができてうれしい」と語った。
◆「平和の少女像」前でひざをついて贖罪
野村氏は日帝の侵略と植民支配についても公開的に声を出した。2012年に在韓日本大使館前の「平和の少女像」の前でひざをついて日本の過去について贖罪した野村氏はその後、日本の右翼勢力から何度か殺害脅迫を受けたという。
その後も野村氏は韓国社会の弱者のための活動を続けた。2009年からプルメ財団を毎年訪問して障害者とその家族に会い、生活費を節約して集めた資金をネクソン子供リハビリ病院の建設のために寄付した。2013年には双竜自動車解雇労働者のデモ現場を訪問し、平和な解決を望むと伝えた。
野村氏は国籍と世代を超越した博愛精神が認められ、2015年に第1回アジアフィランソロピーアワードの受賞者に選ばれた。野村氏は受賞の際、「清渓川貧民救済活動だけで贖罪の旅が終わったとは考えていない」とし「余生をより一層謙虚に、韓国人を通じて学んで、愛し合いたい」と話した。
野村氏の息子の真理氏は「父は収入が減った老後も少しずつ貯金して寄付を続けた」とし「自身を低めながら聖書の『狭き門から入れ』という言葉を毎日実践した」と伝えた。
野村氏と長い付き合いのプルメ財団のペク・ギョンハク常任代表は「最後の願いを問うと『息子の真理が韓国の障害児童のために奉仕する人生を生きていくことを望む』と笑顔で語った野村氏の姿が思い浮かぶ」とし「故人が韓国社会に残した愛を記憶し、その愛がより大きな希望に育つよう守っていきたい」と話した。
2025/07/29 08:02
https://japanese.joins.com/JArticle/336842