「父のメダルの国籍はまだ日本のまま」…マラソン孫基禎選手の長男の最後の夢

投稿者: | 2025年8月14日

「父のメダルの国籍は、まだ日本のままです。私が生きている間に正すことはできるでしょうか」

白髪の老人の眼差しが一瞬揺れた。“マラソンの英雄”孫基禎(ソン・ギジョン)選手(1912~2002)の息子、ソン・ジョンインさんだ。今年82歳の彼と、7日、横浜の自宅で会った。

 「恨みも、憎しみもありません。ただ一つ切実な願いがあります。日本オリンピック委員会(JOC)が父の国籍を韓国に戻すことです。これが私の最後の夢です」

孫基禎が1936年ベルリンオリンピック(五輪)マラソンで2時間29分19秒の記録で金メダルを手にしてから89年が経った。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)の記録上、彼の国籍は日本のままだ。国籍返還を求める声に対して、IOCは2011年に公式ウェブサイトで日本名「孫基禎(Son Kitei)」に加えて韓国名「孫基禎」という説明を追加したが、公式な国籍は依然として日本のままだ。

金メダルを獲得しても、胸につけられた日章旗が悲しく、月桂樹の若木を胸まで引き寄せなければならなかった「悲しき英雄」の物語は、今もなお続いている。

「父は国籍表記について公式の発言はしていません。知人には『日本が自ら返してくれることを願うだけ』と言っていました。父は日本政府から表彰を受けたことも一度もありません。朝鮮人でしたから」

ソンさんはガラスケースの中から重みのある青銅の兜を慎重に取り出した。ギリシャの新聞社がベルリン五輪マラソン優勝者に贈ろうとした古代の兜の模型(レプリカ)だ。原本は優勝50年後の1986年に孫基禎に渡され、1994年に国家に寄贈され、現在は国立中央博物館が所蔵している(宝物第904号)。「父は模型を1000個作りました。感謝する方々に渡すのだと言って」。ソンさんが所持している兜は第58号で、自宅玄関の太極旗の横に置かれていた。ソンさんはハンカチでガラスケースを何度も拭いた。

1943年に生まれたソンさんは、父がマラソンをしている間、新義州(シンウィジュ)の伯父宅で育った。父と再会したのは韓国戦争(朝鮮戦争)勃発後の1951年1.4後退の時だった。孫基禎は新義州にいた息子と娘を連れて避難した。ソンさんは父と共に過ごしたソウル安岩洞(アンアムドン)での記憶を今も鮮明に覚えている。マラソンの後輩を育てていた孫基禎の自宅はまるで「合宿所」も同然だった。「選手たちは毎日家で食べて寝て、父は(選手のための)お金集めに奔走していました」

ソンさんは韓日国交正常化後の1968年、「1号留学生」として日本に渡った。父の影響が大きかった。「私は日本に行かざるを得なかったが、お前は韓国人として(自分で)日本に行き、新しい時代の新しい韓日関係、人間関係を築きなさい」と言われたという。ソンさんは父が学んだ明治大学に留学した。

「父が明治大学に行ったのは朝鮮総督府のためでした。走らないという条件で日本に行くように言われたのです。そのため、父は亡くなるまで『箱根駅伝で走りたい』と言っていました。『走れば必ず勝てる』と」

実際、3年間という日本留学の間、孫基禎は毎晩黒い服を着て公園を走った。いつか大会に出られるかもしれないと思ってのことだったが、その願いはついにかなわなかった。

「孫基禎の息子」として生きてきたソンさんの人生も平坦ではなかった。孫基禎は会社を経営していたが倒産した。政治に巻き込まれることを嫌ったため、自然と敵が多かった。留学後、日本に残ったソンさんは大学街で焼肉店を開き、生計を立てた。引っ越しは10回以上に及び、生活は裕福ではなかった。ソンさんは「孫基禎の息子として、言いたいことを自由に言えなかった。世間では『反日』か『親日』かと言われ、何事も慎重だった」と語った。

その「言いたいこと」を何十年も代弁してくれたのが、日本人の明治大学の寺島善一名誉教授(80)だった。2019年に『評伝 孫基禎』を著した寺島氏は明治大学で講演し、日本で孫基禎のことを広く伝える活動をしている。

寺島氏は1983年に孫基禎と初めて出会った。日本の「スポーツと平和を考える会」に参加した際、孫基禎は「スポーツマンは平和問題に関心を持つべきだ」と言ったという。寺島氏は「差別を受けた記憶から、日本に強い敵意を抱くこともできたはずだが、孫基禎は違った。平和のために日韓が連帯すべきだと言った。強い人だった」と語った。

写真も一枚見せてくれた。韓国戦争が最中だった1951年、ボストンマラソンで優勝した日本選手の田中茂樹に、孫基禎が「アジアの優勝」と送った祝電だった。寺島氏は「孫基禎が亡くなった時、日本は弔問どころか花輪も弔電も送らなかった」とし「日本のマラソン金メダリストと言いながら、孫基禎を無視したのと同じことです」と指摘した。そしてこう付け加えた。

「差別や苦しみの中でも、平和と民主主義を語り続けた孫基禎は、常に時代の一歩先を行く人物でした。今年は日韓国交60周年、光復80年にあたります。両国の若者たちが孫基禎の平和精神に思いを致してほしいと願っています」

2025/08/14 11:10
https://japanese.joins.com/JArticle/337583

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)