【忘れられた独立英雄を探す(下)】独立運動から転向のふりして徴用列車へ 「ここは監獄」と抗日主導(2)

投稿者: | 2025年8月15日

日本の留置場の土壁に「朝鮮独立万歳」と刻み、殉国徴用に連行されても独立の熱望を維持した人は他にもいる。

TFチームは朴容鎮に感化されて三菱工場で秘密独立運動を決意したソウル生まれの李天弘(イ・チョンホン、当時23歳)も確認した。李天弘は当時、東京の中央大に留学するほどのエリートだったが、家庭の事情で帰国し、1944年10月に広島三菱工場に連行された。

 李天弘は朴容鎮と寮で出会い、「日帝の崩壊が遠くないので朝鮮独立のための行動を準備しよう」と決意した。しかし1945年4月6日、治安維持法違反で検挙され、同年6月9日に留置場内で自決殉国した。光復をわずか2カ月余後に控えた時点だった。日帝の記録上、李天弘は2カ月以上も拘禁されて取り調べを受け、ひどい拷問に勝てず極端な選択をした可能性もある。

冷たい遺体となった李天弘を発見した日本の看守は当時の状況をこのように描写し、上部に報告した。

「国本天弘(李天弘の日本式の名前)は同宿前歴者の松本容鎮(朴容鎮)の啓蒙を受けて暗躍していた者だが、取り調べ中に自殺し…本容疑者は留置場内の土壁に『朝鮮独立万歳』/三菱造船所応徴/思想犯国本天弘』と刻んだ」(日本内務省『特高月報』)

李天弘は強く願った「朝鮮独立万歳」を最後の瞬間に遺書のように残したという。しかし日警は李天弘の遺体も家族ではなく三菱側に引き渡した。崩壊を控えた極限の状況で会社側が「不穏な思想犯」だった李天弘の遺体を故国に送還したかは分からない。

◆「工場・鉱山を問わず団結しよう」督励…光復は見られず殉国

九州佐賀県小城炭鉱で独立運動をしたチェ・ジェギョン(当時35歳)も解放を1年7カ月後に控えて獄中殉国した。チェ・ジェギョンは徴用前の朝鮮にいた時期から慶北「霊泉(ヨンチョン)青年連盟」を結成し、14歳未満の労働禁止推進など朝鮮人の権利増進と近代化啓蒙に力を注いだ。

チェ・ジェギョンは1942年11月から日本の小城炭鉱で労役をした。会社側が朝鮮人には昼食に冷や飯一つだけを与えるなど差別を繰り返すと、処遇改善を要求して民族意識を高揚する活動をした。

日帝が残した記録によると、当局はチェ・ジェギョンを「意識が尖鋭な思想要注意人物」とし、一挙手一投足を監視した。チェ・ジェギョンは炭鉱内の朝鮮人に「内鮮(日本・朝鮮)差別待遇は結局、朝鮮の独立によって根本的に解決する」「したがって内地(日本)在住の全半島人(朝鮮人)は工場・鉱山を問わず団結して実力で蜂起しなければいけない」と督励したという。

チェ・ジェギョンは結局、1943年10月に治安維持法違反で検挙され、翌年1月に獄中で亡くなった。日帝はチェ・ジェギョンの死因を「胃潰瘍」と記録したが、3カ月間の拘禁期間中に拷問を受けて衰弱した影響が大きかったと考えられる。

2025/08/15 15:01
https://japanese.joins.com/JArticle/337641

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