反対していた野党も「本当に立派だ」…土地と人をつないだ「国土の大動脈」

投稿者: | 2025年8月26日

◇大韓民国「トリガー60」㉔ 1970年、京釜(キョンブ)高速道路開通

これによって全国が一日生活圏になった。列車で10時間、自動車では15時間かかっていたソウル~釜山(プサン)間が5時間以内に短縮されたためだ。輸出商品はトラックに積まれて高速道路を走り港へと向かった。当初「観光道路を作るのか」と言って高速道路建設に反対していた声も次第に小さくなっていった。その後、他の高速道路が国土のあちこちを結び始めた。物流が便利なインターチェンジ付近には工場が建てられた。一種の「地域開発」だ。休暇シーズンになれば市民は高速道路を利用して徐々に遠い場所へと旅行に出かけるようになった。日帰りの近郊旅行が数日宿泊する長期旅行へと変わり、「バカンス」という言葉が流行した。すべてが京釜高速道路から始まった変化だ。

 「高速道路工事は韓国の歴史上、最も壮大な大事業であり、我々の血と汗と意志の結晶によって成し遂げられた民族的な大芸術作品だ」

1970年7月7日、大邱(テグ)公設運動場で開かれた京釜高速道路竣工式で朴正熙(パク・チョンヒ)大統領はこうぶち上げた。また「この道路は経済・産業分野に与える物質的効果も重要だが、それ以上に“不可能はない”という意志を証明したものだ」と自評した。

国土を南北に貫く全長428キロメートルの高速道路を、着工からわずか2年5カ月で、それも1キロメートルあたり1億ウォン(現レートで約1061万円)という「超ケチ工事費」(総額429億ウォン)で開通させたのは、事実上不可能に近い課題だった。

朴大統領は1967年4月の大統領選挙公約として京釜高速道路建設を掲げた。彼はそれ以前、1964年に西ドイツを訪問した際、ボンとケルンを結ぶ「アウトバーン」を目にした。当時、ルートヴィヒ・エアハルト独首相は「産業発展のために高速道路を敷設すべきだ」と助言した。

68年2月に着工した京釜高速道路工事は、最初から難関の連続だった。何よりも韓国の未熟な技術力と劣悪な財政が障害となった。韓国国内で高速道路と呼べるのは、当時建設中だった京仁(キョンイン)高速道路(67年3月着工、69年7月開通)が唯一だった。しかし延長29.5キロメートルにすぎず、本格的な高速道路とは言い難かった。

当時の政府予算の20%に達する429億ウォンという工事費を調達することも大きな負担だった。そもそも工事費の算定からして部署ごとに大きなばらつきがあり、 なかなかまとまらなかった。経済企画院・財務部・ソウル市・陸軍(工兵監室)・建設部などが算定した費用は180億から650億ウォンまでまちまちだった。

◇冬に地面に火をつけて溶かしながら工期短縮

何より大きな壁だったのは野党の激しい反対だった。当時新民党議員だった金大中(キム・デジュン、のちの大統領)は「全国の道路状態がひどいのに、今、国家のあらゆる財源を総動員して京釜高速道路に投入するという。言語道断だ」と批判した。

しかし朴大統領は激しい反対と数々の難関を押し切り、工事を強行した。着工目前だった68年1月21日、北朝鮮軍特殊部隊が青瓦台(チョンワデ、旧大統領府)の裏山まで浸透する事件が起きたときも「戦争が起こらない限り予定どおり進める」と押し通した。

施工は現代(ヒョンデ)建設など16の建設会社と3つの軍工兵団が担当した。延べ892万人と機材165万台が投入された。建設費はガソリン税の引き上げや道路国債の発行、対日請求権資金などから調達した。工期を短縮するため、冬に道路に火をつけて地面を溶かす非常手段まで動員した。米国や英国・フランス・スウェーデンなどの重機メーカーに必死に頼み込み、69年2月には費用後払いで機材も導入した。

まるで軍事作戦を思わせる強行軍のせいで犠牲も少なくなかった。橋梁やトンネル工事の過程で計77人が命を落とした。忠清北道沃川郡東二面(チュンチョンブクド・オクチョングン・トンイミョン)と青城面(チョンソンミョン)の間を結ぶタンジェトンネルは最大の難工事区間であり最後の竣工地点だった。堆積層地帯のためトンネル内部で岩石が落下する事故が13回も発生し、計11人が死亡した。

幾多の紆余曲折の末に開通したが、初期にも論争は続いた。71年末まで京釜高速道路を利用する自家用車の数が貨物車より多く、「観光用道路」と揶揄されなければならなかった。工事をあまりに急いだため、開通直後から路面破損や擁壁崩壊が相次ぎ、補修工事が絶え間なく続いた。

しかし京釜高速道路の威力はすぐに証明された。金世浩(キム・セホ)元建設交通部次官は「京釜高速道路に沿って亀尾(クミ)や蔚山(ウルサン)・水原(スウォン)などに工業団地が相次いで造成され、これらの団地と首都圏を京釜高速道路が結んでくれたおかげで短時間で行き来できるようになった」と語った。大韓交通学会のユ・ジョンフン会長〔亜洲(アジュ)大学教授〕は「京釜高速道路は単なる路線一本の開通ではなく、すべての産業と経済の基盤である交通物流体系の『大動脈』を作った事件だ」と評価した。京釜高速道路が物流輸送に画期的変化をもたらし、国内の産業地形を完全に変えてしまう出発点となった「トリガー」だという意味だ。京釜高速道路はまた、韓国の建設技術を実証する標本となり、中東建設進出の土台ともなった。

◇渋滞も事故もない先端「スマート・ハイウェイ」に向けて

その後、湖南(ホナム)・嶺東(ヨンドン)・南海(ナムへ)高速道路などが続々と開通し、全国をクモの巣のように結ぶ交通物流網が編み上げられた。1970年、京釜・京仁(キョンイン)高速道路を合わせて460キロメートルだった高速道路網は、現在は民間資本道路を含めて5220キロメートルへと11倍に拡大した。道路貨物輸送実績も6000万トンから17億8600万トン(2022年)へと30倍に急増した。こうして築かれた高速道路は、韓国社会の質的成長にも寄与した。京釜軸を中心に首都圏と大邱(テグ)、蔚山~釜山の巨大都市圏が形成された。各都市の高速バスターミナル周辺には商圏が生まれ、サービスエリアなど新しい空間体験を提供した。

第7代国会で新民党議員を務めた金相賢(キム・サンヒョン)元議員(2018年死去)は、かつて中央日報紙の電話取材に対して「当時は大いに反対したが、今になってみれば京釜高速道路建設は本当に立派な成果物だ」と語っていた。

高速道路は今や渋滞も事故もない先端「スマート・ハイウェイ」を目指している。先端情報通信技術(IT)と人工知能(AI)、自動運転、道路技術が融・複合したリアルタイム双方向情報通信道路だ。大韓土木学会の崔棟浩(チェ・ドンホ)会長〔漢陽(ハニャン)大学教授〕は「高速道路は単なる通行空間ではなく、物流・観光・デジタルサービスが融合する複合プラットフォームへと進化すべきだ」と話した。

「アジアン・ハイウェイ」を通じて大陸と結ばれる日も準備しなければならない。アジアン・ハイウェイは1992年からアジア地域の人的・物的交流拡大のために国連アジア太平洋経済社会理事会の主導で進められてきた事業で、総延長14万キロメートルに及びアジア32カ国を結ぶことになる。

全55路線のうち、韓国を通る路線は1号線〔日本~京釜高速道路~平壌(ピョンヤン)~中国~トルコ〕と6号線〔釜山~国道7号線~元山(ウォンサン)~中国~ロシア〕だ。南北関係など解決すべき課題は少なくないが、自動車に乗って大陸へ駆け出す日が近づいているのは事実だ。

◆21年間で11億4000万人を運んだKTX…時速400キロメートル時代が開かれる

京釜高速道路が物流革命を導いたとすると、高速鉄道(KTX)は次元の異なる速度の大革新をもたらした。2004年4月、世界で5番目に高速鉄道を開通させて以来21年間、累積乗客数は11億4000万人に達する。国民一人あたり平均23回乗った計算になる。

高速鉄道開通以前、当時最速だったセマウル号で4時間10分余りかかったソウル~釜山区間を、時速300キロメートルのスピードで2時間台で走破し、全国を「半日生活圏」へと縮めた。京釜・湖南の2路線しかなかった路線網も、その後、中部内陸・中央・全羅(チョルラ)など8路線に増えた。

その間、国内線航空や高速バスなどは速度と利便性競争に押されて高速鉄道にその座を明け渡さざるを得なくなった。それだけKTXが韓国人の生活に深く定着した証左でもある。

韓国における高速鉄道導入が最終的に確定したのは1980年代末だったが、京釜線や湖南線などを結ぶ高速鉄道導入計画はすでに1970年代から話が出ていた。初めて試みる高速鉄道建設の過程は順調ではなかった。手抜き工事や安全性への懸念をめぐる論争で事業計画は2度にわたって全面修正を余儀なくされ、事業の妥当性をめぐって激しい政治的攻防も繰り広げられた。

しかし今では、KTXのおかげで人と物流の移動が活性化し、中長距離通勤・通学が増え、地域経済の生産量が拡大したとの評価が出ている。KTXは今や時速400キロメートル台の超高速時代を見据え、国産化に成功した高速鉄道車両は韓国を飛び出して海外進出にも乗り出している。

2025/08/26 12:57
https://japanese.joins.com/JArticle/338006

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