すでに1年前のことだ。小説家・韓江(ハン・ガン)氏のノーベル文学賞受賞が与えた衝撃と感動だ。韓国の近代文学は130年の歴史を超えると自負する。異論がないわけではないが、ハングルを「国文」に指定して官用文書に使用し始めた1894年の甲午改革をその起点とみる。
1901年に制定されたノーベル文学賞に韓国人は早くから関心を持った。韓国史データベース(db.history.go.kr)によると、東亜日報・朝鮮中央日報などに1930年代から「今年のノーベル賞は誰が受賞した」という記事が出ている。小説家・金承鈺(キム・スンオク)氏がソウル経済新聞に連載した4コマ漫画「パゴダ爺さん」の1960年10月28日付は、作家と見られる4人が自分たちにノーベル賞が与えられる状況を仮定して対話する場面を描いている。植民地時代の単なる好奇心から徐々に露骨な欲望へ、ノーベル文学賞作家を望む情念が強まったとみられる。
◆「文明国韓国を知らせた大きな事件」
しかしノーベル賞の敷居は高かった。1968年の川端康成の受賞は韓国文壇に衝撃だったが、実際、70年にはスウェーデン・アカデミーから候補作品推薦依頼を受けた韓国ペンクラブが推薦を放棄することがあった(中央日報1970年1月31日付5面)。適切な英語の翻訳本がなかったためと解釈される。
下の内容は芸術院会長を務めた詩人の李根培(イ・グンベ)氏が伝えた笑えないエピソードの一つだ。
80年に光州(クァンジュ)を踏みにじって登場した全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は、文人を馴致する目的で81年に文人海外視察団を後援した。李氏が含まれた一行がギリシャを訪問した時のことだ。ギリシャの文人の一人が「あなたの国はどんな言語を使うのか、文字はあるか、文人らが詩を書くのか」と尋ねたという。当時の韓国はその数年前に現代建設が「サウジの20世紀最大の歴史」というジュバイル産業港工事を受注した後、中東建設ブームを迎えた時期だ。81年には西ドイツのバーデンバーデンで88オリンピック(五輪)を招致した。それでも参戦国ギリシャにとって韓国は韓国戦争(朝鮮戦争)の国にすぎなかった。94年の日本の大江健三郎氏と2012年の中国の莫言氏、ディアスポラ文学(離散文学)に範囲を広げれば2000年の中国系フランス人作家の高行健氏と2017年の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏まで、韓国を除いた東アジアの両国が最高権威の文学賞という象徴資本を築く間、韓国のノーベル賞プロジェクトは開店休業状態だった。焦りは深まるしかなかった。
このため昨年の韓江氏のノーベル賞受賞は快挙と表現するしかない。文学評論家の金華栄(キム・ファヨン)氏は「韓国がついに文明国であることを知らせた大きな事件」と表現した。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』、アイドルグループのBTSなど世界の人々に華麗な花だけを見せていたが、ようやく我々の文化の根を表すことになったということだ。韓国文学を翻訳紹介するという海外出版社に90年代から翻訳・出版費を支援してきた大山(テサン)文化財団と韓国文学翻訳院は事業方向が正しかったことを立証することになった。英国ポートベローブックスの2015年の『The Vegetarian(菜食主義者)』出版が大山の支援を受けた。今後、良い作品を出す作家は国際的な注目を受ける可能性も高まったという話も出ている。韓国文学に対する海外の関心がそれだけ高まったということだ。大学街では「もう国文学はノーベル賞を受ける専攻」という笑い話も出ているという。
韓江氏は121番目のノーベル賞作家という月桂冠をかぶることになった。しかし常にスポットライトを受けたわけではない。韓江氏が93年に詩で、翌年に小説でデビューした90年代初期は、韓国社会の文化的転換期だった。東欧圏の没落以降、理念を消費が、巨大談論を生活世界が代替し、文学でも新世代的な感性が注目された。内面性(申京淑氏)や後日譚文学(孔枝泳氏) が浮上した。詩人ユハ氏が詩集『風が吹く日は狎鴎亭洞に行かねば』を出したのが91年だ。「戦場から市場へ」。社会学者ユン・ヨイル氏は当時をこのように規定した(『すべての現在の始まり、1990年代』)。
韓江氏は違った。韓江氏が短編『赤いアンカー』でデビューした94年にソウル新聞新春文芸審査に続き翌年出版された最初の小説集『麗水の愛』の解説を書いた評論家の金炳翼(キム・ビョンイク)氏は、韓江氏の小説は新世代の小説とは異なる形で自身の父の世代、またはそれ以前の世代の苦難の世界に満ちていると評した。
ノーベル賞受賞に決定的な役割をした2016年の国際ブッカー賞受賞以前に韓江氏はすでに李箱文学賞(2005年)と東里文学賞(2010年)、黄順元文学賞(2015年)など国内の文学賞を受けていた。しかしトレンディーな同年代の作家と比較すれば一方退いている姿だった。むしろ時流に無関心のようだった。『菜食主義者』で見せた、夫の目に写った「理解できない妻」の姿は、 殷熙耕(ウン・ヒギョン)氏が98年の李箱文学賞受賞作『妻の箱』で見せた世界だ。『少年が来る』の5・18や『別れを告げない』の4・3も先輩世代の林哲佑(イム・チョルウ)氏と玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏が『春の日』と「スニおばさん」で十数年前にそれぞれ扱った素材だ。世の中の変化に反応して作品を書くよりも、自身の内的な時刻表、自身に意味があり切実な話を書く傾向が強いということだ(ソン・ジョンス啓明大教授)。
2025/10/07 14:29
https://japanese.joins.com/JArticle/339512