旅行は開眼だ。国内であれ国外であれ世の中を見る目が広がる。秋夕(チュソク、中秋)連休で空港はまた混雑している。連休期間に一日平均22万人が仁川(インチョン)空港を利用するという報道はもうニュースではない。現在、多くの韓国人に海外旅行は特別な経験でなく日常の重要な部分だ。その起爆剤となったのが1989年1月1日に施行された海外旅行の自由化だ。わずか一世代の間に世界の各地が「はるか遠い異国」でなく「訪問できるところ」になった。その間、多くのことが急変した。旅行の形態と意味、そして世界を眺める我々の考えが大きく変わった。地理的な距離より文化的な距離が決定的な時代に入った。
#1989年6月=キム・ヒョンリョルさん(当時22歳)は生涯初めての海外旅行を決心した。韓国自由総連盟で教育を受け、外務部にパスポート(旅券)を申請した。転役申告書・在学証明書・住民登録謄本など書類は束のようだった。パスポートは約3週後に受け取った。日本大使館でビザ審査を受け、銀行で日本円に両替した。釜山(プサン)に移動した後、日本の下関に行く旅客船に乗った。玄海灘を渡る船で夜遅くまで『ロンリープラネット』を読んで計画を立てた。1週間後の帰国の際、彼は両手に「象印炊飯器」2つを持っていた。
#2025年8月=キム・ダインさん(21)は最近、香港に行った。4回目の海外旅行も即興的だった。格安航空会社の割引イベント広告を見て往復15万ウォン(約1万6000円)のチケットを購入した。準備は特になかった。ビザも両替も必要がない。外国でも使えるチェックカードさえ持っていればよかった。eSIMで国際通話も問題はなかった。「Airbnb」に接続して香港のアパート1部屋をあらかじめ借りておいた。最初の海外旅行でパスポート自動登録をしておいたため仁川空港の出国審査もすぐに通過した。
◆わずか30年間で出国者数40倍に
上の2人は同じ韓国人だ。現在はもう外国に行くことは大層なことでない。89年の海外旅行自由化以降、韓国人の出国者数は40倍近く増えた(88年72万人→2024年2868万人)。旅行客の数だけが急増したのではない。外国に出ることができるという自由は韓国人の胸中の国境を崩すことになった。韓国人のグローバル化がようやく始まった。
1979年12・12で権力を握った新軍部は友好的な世論形成のためにさまざまな融和措置を発表した。その中に海外進出拡大方針も含まれた。最初の措置が81年に施行した「単数旅券」の廃止だ。一回限りのパスポートが消えた。2年後には「観光旅券」が登場した。それ以前までは出張・留学・移民目的でなければ出国が禁止されていた。政府は2つの理由で国民の出国を制限した。一つは南北対峙による安保問題であり、もう一つは外貨の節約だった。
自由化措置直前の85年に海外に出た韓国人は48万人ほどだった。日本・米国に次いでサウジアラビアが多かった。80年代半ばまで外国に出る韓国人の相当数は熱砂の国に向かう産業労働者だった。モドゥツアーのホン・キジョン元副会長(73)は「80年代には海外出張に行くにも会社の売上高を確認するため、大企業の職員など少数に限り出国することができた」と振り返った。
観光旅券が初めて登場した83年には50歳以上にパスポート発給を制限し、88年には30歳以上に基準を引き下げた。89年の海外旅行全面自由化措置はこの年齢制限が消えたということだ。中央日報は88年12月23日付の社説で「海外旅行自由化は分断と冷戦と貧困による過去の束縛が一つ解けるという感慨深い象徴」とし「国力の成長を改めて確認する措置」と評価した。
海外旅行自由化元年。世の中は一日で変わった。都市銀行が先を競って海外旅行積立金を出して販売し、旅行会社の海外旅行商品が新聞の広告面を埋めた。しかし92年まで外国に行くには男性は韓国自由総連盟、女性は礼智院で素養教育を受けなければならなかった。反共意識の鼓吹が主な内容だった。
当時、海外旅行は一世一代のイベントだった。できるだけ多くの国で入国スタンプを受けてこそ誇りになった。「東南アジア6カ国歴訪」「欧州10カ国一周」など今ではあまり見られないパッケージ旅行が人気だった。ハネムーン市場も変わった。「南山(ナムサン)→温陽(オンヤン)温泉→雪岳山(ソラクサン)→済州(チェジュ)」と順に進化してきたハネムーンは90年代に入って国境を越え、海外に進出した。
否定的な視線もあった。海外旅行は外貨浪費の主犯と見なされた。米国製たばこ、スイス製「マクガイバーナイフ(アーミーナイフ)」、ドイツ製「ツヴィリングナイフ」、日本製「象印炊飯器」など、いわゆる「舶来品」が「外国文化に触れて来た」証拠として流通した。統計もある。1989年は出国者1人あたりの平均支出額が1942ドルだった。パンデミック期間(2020~2022年)を除いて過去最高額だ。外国たばこ・ウイスキー反対デモを報道する記事が続いた。「アグリーコリアン(Ugly Korean)」という言葉が登場したのもこの時期だった。
海外旅行自由化には2つの大きな動因があった。最初は80年代に蓄積された経済成長による国民所得増加、そして87年の民主化運動がもたらした社会全般の革命的な変化だ。一部の指導層の特権のようだった海外旅行の扉が開くことになった。「我々ももう少し広い世界を見たい」という社会的欲望が強まった。
2025/10/08 13:42
https://japanese.joins.com/JArticle/339546