韓国戦争のときも熱かった教育熱…経済大国をリードする「産業戦士」たちを生んだ(1)

投稿者: | 2025年10月28日

今年、韓国の経済成長率は1%を下回る見通しだ。国際通貨基金(IMF)や韓国銀行など、国内外の主要機関の予測だ。成長率0%台というのは、歴史的に見れば珍しいことではない。世界は1700年代末まで数百年にわたり、年平均0%台の「ゼロ成長」を続けていた。英国の経済学者マルサスは1798年の『人口論』の中で「食糧生産より人口の増加速度のほうが速いため、経済は人々がやっとの生活をする貧困水準で停滞するだろう」と主張した。

しかし、マルサスの憂鬱な予言は英国から外れ始めた。1700年代後半に産業革命が起きたのだ。英国は千年にわたるゼロ成長を破り、「プラス成長」にエンジンをかけた。その後、成長の波は米国・欧州・日本などに伝播し、ついに1960年代初め、韓国に上陸した。特に韓国は、長期成長率が年平均8~9%台へと一気に跳ね上がり、これまでのどの国も成し得なかった超高速成長を続けた。

 経済学者ロストウが「テイク・オフ(take-off)」と名づけたこの大転換は、産業化に起因する。雇用と生産の中心が農業から製造業へと移った。伝統的な農業では農民の肉体労働が主要な生産要素だったが、製造業では機械とともに人間の知的労働、言い換えれば「人的資本(human capital)」が核心の変数として浮上した。

シカゴ大学のルーカス教授は、現代経済成長の原動力として人的資本を挙げている。人的資本とは、教育などを通じて労働者や企業家が蓄積した知識や技術を意味する。1960年代初期に始まった韓国経済の高速成長も、それ以前から蓄えられてきた人的資本によって支えられたものだった。つまり、質の高い労働力のおかげだ。

◇ 教育予算の80%を義務教育に投入

1960年代、私たち韓国はどのように人的資本を蓄積したのだろうか。資源も資本も乏しかった韓国が今日、経済大国へと大きく成長した根底には、男女差別のない小学校義務教育の実施という踏み台があった。教育は昔から韓国社会のキーワードだった。伝統的な儒教社会でも教育を「百年の大計」として重視していた。しかし、それは一部の両班階層に限られていた。日帝強占期には植民地教育が主流となった。1945年の解放を迎えた時、文盲率は80%に達していた。いわゆる「文字の読めない社会」だった。

国の基盤を整えなければならなかった解放直後の社会制度、教育制度の整備は喫緊の課題だった。民主主義と市場経済の定着には、教育という土壌を固めることが必要だった。1948年の制憲憲法ではすでに「初等教育は義務であり無償とする」と規定された。李承晩(イ・スンマン)大統領の意思も強かった。1949年に教育法を制定し、小学校6年間の義務教育を法制化した。「教育は自由民主主義の根本であり、学ばない国民に民主政治は空虚である」と述べた。

韓国戦争(朝鮮戦争)で一時中断した義務教育が本格的な軌道に乗ったのは、1954年の戦後再建期からだ。1959年までの6年間、義務教育を強力に推進した。教育税・義務教育財政交付金法などを制定し、文教部予算の約80%を初等教育に注ぎ込んだ。1948年の政府樹立当時、75%にとどまっていた小学校進学率は、1959年には96%まで上昇した。

義務教育の実施は、現代韓国教育改革における最も成功した事例だ。市民意識の涵養とともに、60~70年代の産業化を牽引(けんいん)する役割を果たした。韓国経済の「テイク・オフ」段階において、決定的なエネルギーとして作用した。

1965年から1988年まで韓国と米国の経済成長と租税政策を比較したことがある。データを分析した結果、長期成長率で韓国が5ポイント上回っていたが、特に韓国は米国に比べて勤労所得税の比率が格段に低かった。米国の実効税率(勤労所得税-政府教育補助金)が17%だったのに対し、韓国はマイナス9%だった。26ポイントもの差があった。国民にかなりの教育補助金を与え、人材育成に熱心だったという意味だ。

韓国では、国語や算数を学び人的資本を大きく高めた労働力が1950年代後半にはすでに形成されていた。読み書きを学んだ彼らは、知識を蓄える基本手段を獲得した。また、算数を通じて合理的な経済活動の基礎となる計算能力も身につけた。

こうした質の高い労働力は、ソウル・釜山(プサン)などの大都市だけでなく、農村や地方各地でも形成された。戦後のベビーブームで小学校を卒業した労働力が増え、全国的に新たな人的資本を備えた潜在的労働者が大量に現れた。彼らが小学校6年を終え、都市を基盤とする製造業に供給され始めて1960年代の産業化に火がつき、国家経済も質的・量的に成長を繰り返した。

英国の産業革命がマンチェスターの繊維産業から始まったように、韓国の産業化も繊維産業から出発した。繊維産業は1960年代、韓国の輸出第1位産業としてしばらく君臨した。当時を反映するように、歌手ハン・ミョンスクが歌った『黄色いシャツの男』は空前のヒットを飛ばした。従来の韓服からシャツなどの洋服へと変わる衣生活の変化と、それを支えた韓国繊維産業の台頭を象徴する歌だった。

繊維産業の中心人材は女性労働者たちだった。当時の繊維産業は、比較的賃金の低い女性労働者への需要が高かったが、1950年代の農村地域で義務教育を受けた優秀な女性人材がその需要を満たした。彼女たちが都市の繊維産業に大量に投入され、1960年代初めから長期成長率が8%台へと急上昇した。

筆者が幼少期を過ごした安養(アニャン)には、金星(クムソン)紡織という大きな紡績工場があった。忠清(チュンチョン)・全羅(チョルラ)・慶尚道(キョンサンド)など全国各地から集まった女性労働者約3000人が働いていた。彼女たちは少ない給料ながら一生懸命に貯金した。もちろん当時の労働条件は厳しかった。2交代・3交代勤務や、苦しい夜勤・長時間労働にも耐えなければならなかった。歌手イ・ミジャが歌って大ヒットした『泣け、烈風よ』という歌があるが、その歌詞「泣け、烈風よ、夜が明けるまで」を、女性労働者たちは「泣け、ミシンよ、夜が明けるまで」と替え歌にして歌っていたのを、幼いころに聞いた記憶がある。

2025/10/28 15:21
https://japanese.joins.com/JArticle/340301

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