「ハルコさん(裴奉奇(ペ・ポンギ)さんと慰安所で一緒にいた朝鮮人)は4歳の子どもを両親に預けてきたが、子どものことを思って泣いていた」
4月12日、東京の中野で開かれた集会で、日帝強占期(日本による植民地時代)の日本軍「慰安婦」被害者の裴奉奇さん(1914~1991)のつらい記憶が淡々と語られた。日本の市民団体「日本軍性奴隷制の否定を許さない4・23アクション」(4・23アクション)が開催した証言朗読会「あなたの言葉を聴く―証言朗読でたどる地続きの歴史」では、裴奉奇さんが生前に残した証言を参加者が朗読して聞かせる場が用意された。
「夢を見ました。しかし、夢の中では、故郷に行っても家もなく、何もありません。一人で外を歩いて、石の上に座ります。一人で…」
この日、裴奉奇さんの話を代読した朗読者で在日本朝鮮人人権協会の朴金優綺(パク・キム・ウギ)事務局長は、「裴奉奇さんと一緒に(慰安所にいて)亡くなった他のサバイバー(被害者)を記憶したい」として、「実名も不明で被害にあった6人の朝鮮人女性についての話をしたかった」と述べた。彼女は「裴奉奇さんの人生には、日本の帝国主義と植民地支配に基づく国家暴力、その後の南北分断と冷戦、沖縄で広がる米国の軍事主義に基づく構造的暴力などが凝縮されていたように感じられる」と語った。
裴奉奇さんは1914年9月、忠清南道礼山郡新礼院里(イェサングン・シンレウォンリ)で生まれ、日帝強占期の1943年、「お金をたくさん儲けることができる」という話にだまされ、1944年11月から1945年3月末まで、沖縄の渡嘉敷島で「慰安婦」としての生活を強要された。戦争が終わった直後も自由を得られないまま、他の民間人とともに座間味島や沖縄本島などの収容所を転々とした。「戦場でのこと」のため、故郷に帰ることはできなかった。
沖縄に残った裴奉奇さんは、1972年に沖縄が日本に復帰すると、「朝鮮人」という理由で強制追放の危機に直面した。当時、裴さんは自身が日本による侵略戦争の被害者であり、日本軍「慰安婦」だった事実を告白し、その後、特別永住資格を得ることができた。朝鮮半島出身の女性のなかで、自身が日本軍「慰安婦」被害者だった事実を明らかにした初の事例だった。この過程で、裴奉奇さんの話が1975年に日本の現地メディアで紹介され、1977年4月23日付の朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」で、裴奉奇さんの話が紹介された。
4・23アクションは、裴奉奇さんを記憶するために、2015年に結成された団体だ。4月12日に朗読会を開催したのに続き、4月23日には日本の国会議事堂の前で70人ほどが集まり、裴奉奇さんを追悼するスタンディングデモを実施した。今年で12回目となるこの日のスタンディングデモでは、1991年に韓国で初めて「慰安婦」被害の事実を公開した故キム・ハクスンさんの証言を朗読する場も設けられた。参加者らは、他の「慰安婦」被害者である「キム・ボクトンさん」「クァク・クムニョさん」「カン・ドッキョンさん」「キル・ウォノクさん」らの名を読み上げた。参加者らは「日本政府はこれ以上、被害者たちの尊厳を傷つけるな」「日本政府は謝罪して賠償せよ」などのシュプレヒコールを上げた。
ある参加者は「日本政府が日帝強占期に朝鮮人に対して行ったあらゆる蛮行を謝罪せず、国家賠償どころか過去を否定して美化し、反人道的な犯罪を隠すだけでなく、被害者を誹謗し、冒とくする行為さえ辞さない」と批判した。
続いて、裴奉奇さんをはじめとする「慰安婦」被害者を悼み、性暴力加害者による歴史否定は絶対に許さないという覚悟を込め、2022年に団体自らが作成したテーマソング「ナララ(蝶となれ)」が歌われた。「『なかった』なんて どういうこと/ぎゅっとにぎった こぶしをあげる/(…)引きちぎられた ココロとカラダ/記憶をあつめ 声をつないで/あの日のわたし 解き放つ/殻を破って 蝶となれ/ナララ ナララ ナラ ナララ~」
2026/04/24 11:48
https://japan.hani.co.kr/arti/international/56136.html