3)牛岩洞(ウアムドン)牛幕村
峨嵋洞が幽霊の住んでいた墓地に人が入ったケースなら、牛岩洞は牛がいた牛舎に人が入って暮らしたケースだ。牛岩洞の別名が牛幕村(ソマクマウル)だ。「牛(ソ)の幕舎(マクサ)」がある村という意味だ。
日帝強占期、日本はこの地のあらゆるものを略奪した。その中には牛もいた。全国各地から韓牛を連れてきて日本に送り、牛を載せた船は現在はなくなった釜山の東港から出発した。東港から目と鼻の先にある牛岩洞には大型牛舎19棟が建てられた。多い時には牛1万頭が集まった。
この牛舎に避難民が入って暮らした。バラックはおろかテントさえ足りなかった時代、牛舎はそれでもまともな家だった。牛幕村の住民は屋根と天井の間の空間に屋根裏部屋を作り、貸し出すこともあった。2階に通じる階段を設置する場所がなく、1階の家主の部屋の中に階段を作った。牛幕村にはプライバシーがなかった。
牛岩洞には100年の歴史を誇る「内湖(ネホ)冷麺」がある。1919年、咸鏡南道咸興市興南内湖里(ハムギョンナムド・ハムフンシ・フンナム・ネホリ)で開業した「トンチュンミョンオク」の一家が興南撤収の際に南下し、4代にわたり冷麺を作っている店だ。この店から釜山ミルミョン(小麦粉麺)が始まった。1959年、東港聖堂の神父からもらった小麦粉を使い、内湖冷麺の2代目代表、チョン・ハングムさん(1924~2010)が冷麺のように作ったものがミルミョンの始まりとなった。
4)影島橋(ヨンドダリ)
影島橋の正式名称は「影島大橋」だ。しかし、釜山の人は誰も「影島大橋」とは呼ばない。ユネスコ世界遺産の優先登録リストに載った名称も影島橋だ。影島橋は当初の避難首都遺産のリストにはなかった。昨年11月に追加された。
影島橋は避難首都・釜山を象徴する名所だ。避難民が離散家族を探すために集まった場所だったからだ。避難民はなぜ影島橋で会おうとしたのだろうか。1934年に日帝が建設した影島橋は、韓国では初となる陸地と島を結ぶ連陸橋であり、跳開橋だ。生涯一度も釜山に行ったことがない人でも、釜山には片側が開く橋があることを知っていた。
ヒョン・インの『頑張れクムスン』をはじめ、1950~60年代に発表された大衆歌謡のうち、影島橋が登場する歌は20曲にもなる。どれも道に迷ったクムスンを切実に探す避難生活の生存記だ。
影島橋が最初に開通した当時は、1日に多い時で7回も橋が上がった。影島橋の跳開行事は1966年に中断されたが、2013年11月27日に再開された。その日以降、影島橋は以北出身の高齢者にとって「死ぬ前に必ず行ってみたい記憶の中の場所」として生まれ変わった。跳開行事が再開されてから2、3年間は、高齢者を満載した観光バスが全国から押し寄せた。2013年には毎日正午に橋が上がったが、最近は週に1度だけ橋が上がる。土曜日午後2時だ。
◇避難首都・釜山の旅行情報
臨時首都記念館として使われている景武台は入場無料。毎週月曜日休館。牛岩洞には「牛幕村住宅」展示館がある。入場無料。解説員が常駐している。正午~午後1時は昼休み、月曜日休館。ネホ冷麺は午前10時30分~午後7時まで営業する(午後3~4時はブレイクタイム)。最近のような夏場には午前10時から行列ができる。釜山の旅行会社「旅行特攻隊」が牛岩洞牛幕村、国連記念公園などを巡る日帰り旅行商品を運営している。
2026/08/13 10:30
https://japanese.joins.com/JArticle/353484