蔚山(ウルサン)の都心を流れる太和江(テファガン)沿いを歩いていると、南山のふもとに洞窟が現れる。「太和江洞窟ピア」という看板が掲げられた人工洞窟だ。内部にはメディアアートやデジタル体験施設などが設けられている。真夏でも比較的涼しいため市民に親しまれている蔚山の名所の一つだ。
しかし時代を80年余りさかのぼると、ここはまったく違う姿をしていた。日帝強占期に旧日本軍が軍需物資を保管するため、住民を動員して岩盤を掘削しながら造った軍事用の人工洞窟だからだ。住民からかき集めた米や真鍮の器から松炭油まで、さまざまな物資を保管していた収奪の現場でもあった。現在は「洞窟ピア」という名称の体験施設となっているが、各所には当時の痕跡が残されている。
光復節(8月15日、解放記念日)を控え、蔚山の中心部に今も残る日本軍の秘密洞窟が物語る歴史とその意味に改めて関心が集まっている。
蔚山市南区などによると、「太和江洞窟ピア」は南山のふもとに残っていた日帝強占期の人工洞窟4つを整備して2017年に開館した文化施設だ。南区が150億ウォンを投じて整備した。洞窟の長さはそれぞれ16~62メートルで、最も長いものは60メートルを超える。
洞窟は1940年代に造られた。当時、蔚山市南区三山洞には民間飛行場があったが、1942年に軍用飛行場に転用された。日本軍は飛行場近くの南山のふもとの岩盤を掘削し、軍需物資などを保管するための洞窟を造った。
掘削作業には住民が動員された。子どもも例外でなかったという。住民は岩盤を掘り、完成した洞窟は日本軍の物資保管施設として使われた。洞窟には住民から取り上げた米などの農作物が積み上げられた。また祭祀を行う家から祭器として使っていた真鍮製の器を奪って運び込んだほか、若い女性の長い髪やかんざしまで洞窟に保管したと伝えられている。
日本軍による収奪が激しくなるにつれ、住民の生活は困窮していった。食べるものが不足し、長生浦(チャンセンポ)の海岸に流れ着いた水草を乾かし、それを食べて飢えをしのいだという話も地域に残っている。
1945年に光復を迎えると、住民は牛を連れてこの洞窟を訪れた。日本軍が保管していた米などを持ち帰るためだった。洞窟の扉を開けると、中には穀物がぎっしり詰まっていたという。当時、日本は戦争の長期化で石油不足に苦しんでいた。そこで松炭油の生産を始め、この作業にも住民や学生が動員されたと伝えられている。現在、洞窟ピアには「松炭油」のドラム缶の模型が展示されている。
光復後、洞窟は長い間放置されていた。住む家のない人々の仮住まいになったこともあれば、巫堂(ムーダン)の儀式を行う場所や違法な簡易酒場などとして使われたこともあった。日帝強占期の強制動員と収奪の痕跡を残す場所だったにもかかわらず、体系的な保存や歴史教育はまともに行われなかった。
その後、地域社会ではこの洞窟を歴史教育の資料として保存・活用すべきという声が出始めた。南区は2013年から整備計画に入り、2017年に4つの人工洞窟を中心に「太和江洞窟ピア」を開館した。開館初年の2017年には17万6000人が訪れた。2023年には16万6000人、2024年には18万6000人が来場した。昨年は14万6000人が訪れ、今年も6月までに6万人が足を運んでいる。洞窟ピアの関係者は「光復節がある8月は普段より来場者が増える傾向にある」と伝えた。
洞窟の歴史の重みに比べて展示物が不足しているとの指摘もある。4つの洞窟のうち日帝強占期の歴史を集中的に扱っているのは長さ約60メートルの第1洞窟だけだ。ここには、洞窟に関連する造形物や実際に使用された機材、収奪や強制動員の歴史を説明する展示物などが設置されている。一方、第2~4洞窟はデジタル水族館や昆虫体験館など体験型施設を中心に整備されている。
小学4年生の娘と洞窟ピアを訪れたイさん(42)は「日帝強占期の歴史を紹介しているのは第1洞窟だけで展示内容もそれほど多くなかった。子どもにここの歴史を伝えたかったが、残念だった」と話した。
南区の関係者は「洞窟ピアが強制動員と収奪の歴史を伝える意義のある空間になるよう、展示やコンテンツを充実させる方法を模索するとともに、洞窟内部の管理にも万全を期していく」と話した。
2026/08/14 14:24
https://japanese.joins.com/JArticle/353577