朝鮮民族の代弁者として時代を雄弁に語り、日本による検閲に徐々に順応する道へ

投稿者: | 2026年10月18日

 「私自身が生まれて初めて新聞記者をうらやましく思い、また、新聞記者になりたいと望むようになったある『エピソード』について語りたい」

 日帝強占期(日本による植民地時代)、朝鮮日報と朝鮮総督府の機関紙である毎日新報で活躍した記者、金乙漢(キム・ウルハン、1905~1992)が、自身の進路を決定づけた「運命の日」のいきさつを明かしたのは、1960年11月に出版された著書『事件と記者』(新太陽社出版局)を通じてだった。日本の関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生してから半月あまりが経過した1923年9月18日、ソウルの仁寺洞にある朝鮮劇場で、東京留学経験者たちが結成した新劇公演団体「土月会」の第2回公演が行われた。その後、韓国社会でそれぞれ独自の人生を歩むことになる金復鎮(キム・ボクジン)・金基鎮(キム・ギジン)兄弟、朴勝喜(パク・スンヒ)、安碩柱(アン・ソクジュ)、朴勝木(パク・スンモク)、李瑞求(イ・ソグ)、金乙漢らで構成された土月会は、初日の公演を成功裏に終えた後、鍾路の水銀洞(現在の廟洞)にあった中華料理店「悦賓楼」に移動し、打ち上げを行っていた。興に乗った若者たちが「注げ、飲め」と騒ぎ立てたため、「料理店が吹き飛ぶかと思うほど」騒がしかった。

 時間は真夜中をとうに過ぎていたが、宴はますます盛り上がっていた。こうした宴席に歌がないはずもなかった。当時、大人気を博していた作曲家ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』に登場するアリア「闘牛士の歌」が店内に力強く響き渡るなか、突如として部屋の戸を勢いよく開け放つ者がいた。通報を受けて駆けつけた鍾路警察署所属の日本人巡査だった。「安眠妨害罪で全員を検挙する」

 若者たちは「酒を飲んで少し騒いだだけで、何が問題なのか」と反抗したが、警察権力の威圧には抗しきれなかった。結局、月が明るく照らす秋の夜、鍾路通りを通って、朝鮮の青年数十名が、現在のソウルYMCAの建物の隣にあった鍾路警察署へ連行された。彼らを引き継いだ日本人の警部は、面倒くさそうに「この連中は一体何者だ」と言った。

 まさにその瞬間だった。連行されてきた一行の中から、前に進み出る者がいた。その後、「朝鮮日報」や「中外日報」などで敏腕記者として名を馳せるが、日本統治末期に「毎日新報」編集局長として晩節を汚すこととなる鄭寅翼(チョン・イニク、1902~1955)だった。彼は、同時代の男性たちに対する辛口な人物評で有名だった俳優の卜惠淑(ボク・ヘスク、1904~1982)が「日帝強占期で一番のしゃれ者」だと評した美男子でもあった。このころ、東京での留学を中断して帰国し、「毎日新報」社会部に勤務していた。当直を務めていた日本人の警部と顔見知りだったのか、テーブルに半分腰掛けながら話しかけてきた。しかも、敬語すら使わなかった。

 「巡査相手では話が通じないから、わざわざ本署までついてきた。若い学生たちが酒を飲んで少し騒いでいるだけなのに、なぜ検挙する必要があるのか。ただちに釈放するのはどうだ」

 「まあ、そうだな。君の言うことも一理あるから、それなら今晩はそのまま帰してやろうか」

 この光景を驚嘆のまなざしで見つめていた金乙漢は、それから37年が経過した後に出版した著書の中で、「新聞記者をうらやましく思い、将来、社会に出たら新聞記者になろうと決心したのは、まさにその夜のことだった」と告白することになる。彼が記者を志した理由はただ一つ、「新聞記者は無冠の帝王であり、新聞は社会の木魚」であり、記者だけが「恐怖に満ち、うんざりするような(日帝強占期の)時代でさえ、日本の警察に一対一で対抗できる」存在だという確信を持ったからだった。彼の目には「解放(日本の敗戦)前の新聞記者は(日帝の支配に立ち向かえる)唯一の自由人」と映っていた。

 しかし、金乙漢の信念とは裏腹に、朝鮮の「唯一の自由人」たちが真に自由だったわけではなかった。朝鮮総督府が1920年1月、東亜日報・朝鮮日報・時事新聞のハングル新聞3紙に発行許可を与えたのは、朝鮮人に真の意味での「言論の自由」を保障するためではなかった。自分たちの植民地統治がより円滑に行われるよう、一種の「息抜き」の場を設けたに過ぎなかった。朝鮮の記者たちは、3・1運動以降に赴任した斎藤実(1858~1936)朝鮮総督が掲げたいわゆる「文化統治」の枠組みのなかでのみ活動できた。日本の植民地統治を批判する気配さえみせれば、間違いなく苛烈な鉄槌が下された。

 こうした根本的な限界の中でも、「朝鮮の記者」たちは、自分たちに与えられた歴史的使命を果たそうと尽力した。漢陽大学のパク・チャンスン名誉教授は、著書『韓国独立運動の歴史33―言論運動』(2009)の中で、当時のハングル新聞が、民族の意思を代弁し▽民族運動を支援し▽思想と文化の発展を図り▽言論の自由の獲得を「試みる」など、さまざまな役割を果たしたと指摘した。実際、ハングル新聞の極めて短い「全盛期」だった1920年代には、各新聞がそれぞれの個性を発揮し、熾烈な競争を繰り広げた。民族主義右派勢力を代弁した「東亜日報」は、独立のためにはまず実力を養わなければならないという実力養成論を主張し、「朝鮮日報」は民族主義左派(非妥協的民族主義)の立場から、社会主義者たちと連合戦線を構築した新幹会運動を主導した。

 一般の朝鮮人たちは、そうした新聞を心から愛し、大切にしていた。曲がりなりにも自分たちの政治的意思を代弁するものであり、朝鮮人が持つ事実上の「すべて」だったからだ。雑誌「東光」の1931年12月号に掲載された「朝鮮新聞界の縦横談」という記事には、ハングル新聞に対する当時の民衆の心情がありのままに表現されている。「朝鮮の新聞がそれほど民衆に大きな影響を与える理由は、他でもない、新聞が合法的に朝鮮人の主張を少しでも代表する唯一の機関だからだ。つまり、唯一の政治的・経済的・文化的な指導機関であり、純粋に朝鮮人の手によって経営される唯一の機関だということだ。だから民衆も、これこそが自分のものであり、自分のためのものであるという考えを持ち」「(創刊初期の)東亜日報に対する国民の期待はすさまじく、記者が取材のために田舎に行って旅館に泊まると、旅館側は記者が泊まってくれること自体を光栄だとして、宿泊料を請求しないほどだった」(趙容萬(チョ・ヨンマン、毎日新報学芸部長を歴任)『木の根元に咲く鳳仙花よ』1985年)。

 それぞれ涙ぐましい事情を抱えて「朝鮮の記者」となった彼らは、現役として活動していた1920~1930年代はもちろん、解放後の1950~1980年代に至るまで、数々の単行本や雑誌などを通じて少なからぬ回顧録を残した。日本の警察の不当な措置に立ち向かい、朝鮮民衆を守った話、警察署から捜査資料を盗み出して大スクープをものにした話、独立運動家たちへの虐待で悪名高かった鍾路署高等課の三輪和三郎警部(1884~1968)の鼻をへし折った話、警察より先に容疑者の家に到着して、一同をあっけに取らせた話、さらには出張先で締め切りに間に合うよう記事を書いていた最中にズボンに大便を漏らしてしまった話まで、さまざまな武勇伝があふれている。1930年代初頭、現役記者たちが共同で執筆した雑誌「鉄筆」を読むと、彼らは「記者は常に現場を確認しなければならない」と考えており、「読者にとってより読みやすい記事」を書くために最善を尽くしていた。当時、職業記者の模範とされ、各新聞社の社会部長を歴任した柳光烈(ユ・グァンリョル、1898~1981)は「鍾路で外勤を担当していた頃」には「管轄内の派出所まで一つひとつ立ち寄り、その勤勉さには誰もが感服せずにはいられなかった」という逸話を残しており、朝鮮日報の社会部長時代には、毎日「記事がない」と報告してくる徐範錫(ソ・ボムソク、1902~1986)に対し、「記事がないことも記事だ」という言葉で奮起を促した。

 彼らは当時のエリートであり、時代の鋭い観察者でもあったが、本質的には「植民地朝鮮」という巨大な甕(かめ)の中に閉じ込められたネズミだった。思いのままに筆を振るえば、記者個人は過酷な処罰を受け、新聞社は削除・押収・発行停止・発売禁止などの行政処分を甘受しなければならなかった。当時、新聞の検閲を担当していた総督府警務局図書課から、最も軽い「削除」処分を受けただけでも、新聞社は稼働中の輪転機を止め、銅版から記事を削り取った後、再び機械を回さなければならなかった。もともと財政が苦しく、社員の給料も滞っていた新聞社は、「1~2時間で500~600円もの損害」(柳光烈『社会面編集に関する意見の苦心談』、1930年)を被ることになるこうした苦痛を、次第に避けるようになった。

 削除と押収はまだましな方だった。発行停止(停刊)は、新聞社の存立そのものを揺るがす大きな脅威だった。停刊処分を受けると販売収入が途絶え、社員たちは給料を受け取ることができなかった。苦労して築き上げた読者層も、散り散りになってしまうことが多かった。長江大河のように滔々と流れる名文で「京城の紙価」を高めた朝鮮日報の主筆、民世・安在鴻(アン・ジェホン、1891~1965)は、自身が執筆した社説「済南事件の壁上観」(1928年5月9日付)によって新聞社が停刊処分を受けることになると「電灯の光さえも薄暗い堅志洞の朝鮮日報社2階の編集室で、記者全員に取り囲まれた」まま、沈痛な声で次のように語った。「申し訳ありません。私一人の過ちで、皆さんに影響を与えてしまいました。」(柳光烈『記者半世紀』、1969年)この一件で朝鮮日報は実に133日間も新聞を発行できず、安在鴻は8カ月間、懲役刑に服した。それでも持ちこたえる体力があった東亜日報と朝鮮日報は、それぞれ4回の停刊処分を受けても生き残ったが、資本力が弱かった蒙陽・呂運亨(ヨ・ウニョン、1886~1947)の朝鮮中央日報は、1936年8月の「孫基禎(ソン・ギジョン)日章旗抹消事件」でたった一度の発行停止処分を受けただけで、最終的に廃刊を選択することになった。

 結局、朝鮮の新聞は1930年代に入ると、徐々に順応していく道を歩むことになる。ハングル新聞の検閲を担当していた総督府警務局図書課長の立田清辰(1890~1942)は、植民地時代の朝鮮警察の機関誌である「警務彙報」1931年1月号に「1930年の朝鮮出版界の回顧」という非常に興味深い文章を残した。「民族意識に流されて暴れ回っていた曲筆も、階級意識に便乗して流れていた舞文(歪曲された文章)も、また民衆の生活苦を嘆く声として列挙していた論説も、どれ一つとして朝鮮民族の発展と向上に役立つものはないという事実を次第に悟るにつれて(中略)昨年の学生事件(1929年の光州学生運動)の後、突然考えを改め、その筆鋩(筆先)を正し、穏健な方向に傾いた」。朝鮮の記者たちもまた、このような変化を知らないはずがなかった。1929年に東亜日報の編集局長となった朱曜翰(チュ・ヨハン、1900~1979)は、「創刊当初の日刊新聞は、2日と置かずに発売禁止や押収処分を受け、そのたびに配達員たちが中庭に集まって万歳を叫んだ」とし、「しかし、私が編集局長になるころには、会社の方針が『なるべく押収されない範囲で論説や記事を書くように』という方向に変わった」と回想した。韓国学中央研究院のチャン・シン教授は、1930年代に入って本格化したこうした現象を「言論の商業化」という観点から分析している。「かつては抵抗の象徴だった押収や停刊が、利益創出を目標とする企業経営のためには、可能な限り避けるべき」(『1930年代の言論の商業化と朝鮮・東亜日報の選択』、2005年)ことになってしまったのだ。「朝鮮の記者」たちは、自分に与えられた社会的使命を果たそうとすれば新聞の「存立の基盤」が危うくなり、逆に生き残るために適当に妥協すれば、ジャーナリストとしての「存在意義」が失われるというジレンマの中で苦悩せざるを得なかった。この二者択一の道で、結局勝利したのは、いずれにせよ企業(メディアもやはり企業だ)は生き残り、金を稼がなければならないという資本の論理だった。

 それと同時に、日本は満州事変(1931年)・日中戦争(1937年)・太平洋戦争(1941年)へと続く戦争の泥沼にはまり込んでいく。「検閲基準」もまた、次第に強化されていった。ある者は自発的に親日の道を選び、ある者は生計を立てるためにやむを得ず協力し、こうした屈辱にどうしても耐えられなかった一部の者は新聞社を去り、筆を折った。そしてついに植民地権力は、1939年末になると、戦争遂行のためには従来よりもさらに徹底した言論統制、すなわちハングル新聞の廃刊が不可避だとする結論に至った。もし、東亜日報と朝鮮日報が1940年8月に強制的に廃刊されていなかったなら、さらに徹底的に身を汚さざるを得ず、解放後の華々しい復刊は不可能だったかもしれない。両紙が消えると、「朝鮮の記者」たちのうちの相当数は毎日新報に移り、より徹底した親日の道を歩むことになる。

 植民地朝鮮には、それぞれが強烈な個性を発揮していた数多くの記者がいた。東亜日報・朝鮮日報・中外日報という三つの新聞を自らの手で育て上げた李相協(イ・サンヒョプ、1893~1957)のような傑出した職業新聞人がいたし、文章の中に憂国衷情の思いを溶かし込む術を知っていた安在鴻のような偉大な言論人もいた。また、現場で優れた記事を掘り起こす術を知っていた柳光烈のような「プロ記者」たちも少なくなかった。しかし、奪われた野に春が訪れないように、奪われた国では真の言論が活動する余地はなかった。まさにこの点が、「ハンギョレ創刊」という勝利へと結実した1970~1980年代の言論自由闘争との最大の違いだった。

 今後10回ほどにわたり、日帝強占期35年を生き抜いた「朝鮮の記者」たちの物語に耳を傾けながら、「植民地時代のジャーナリズム史」を復元してみたいと思う。失敗した歴史を振り返ることには苦痛を伴うが、これを通じて日本が行った植民地支配の苛酷さと、その中で「一面抗争・一面妥協」(金乙漢)を続けるうちに屈してしまった植民地ジャーナリズムの役割と限界について、より深く考える機会が得られると信じている。

2026/10/14 08:23
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/57428.html

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