「今後、数万の民と約束するが、私はあえて自分自身を聡明だとは考えず、あえて様々な事務に干渉することはないだろう。狡猾な人々とは接触せず、個人財産は集めず、ただ公的なことだけを聞くだろう」
壬午軍乱(1882年)と甲申政変(1884年)という2つの変乱を経験した後、高宗の権威は地に落ちた。壬午軍乱が発生した直接の原因は、高宗夫妻の贅沢と閔氏一族の腐敗であり、甲申政変が繰り広げられたのは、高宗が清に対抗して「朝鮮の自主」を掲げた金玉均(キム・オッキュン)ら急進開化派に付和雷同したためだった。高宗は甲申政変の後処理する漢城条約を締結した直後の1885年1月15日、国民の前に恥辱的な反省文を出したが、本質的には変わったものはなかった。彼は言ったことを守らない人だった。
甲申政変の直後、高宗は朝鮮の運命に強い影響を及ぼすことになる大きな「外交的賭け」に手を出す。清日両国をけん制するために「第3の勢力」であるロシアの力を借りることにしたのだ。高宗の決断に決定的な影響を与えたのは、外交次官に該当する協弁交渉通商事務を担当していたドイツ出身の外交官パウル・ゲオルク・メレンドルフだった。彼の夫人のロザリーが1930年に出した『メレンドルフ自伝』によると、日本は「300年前から朝鮮の宿敵」であり、清は「自身の隷属国(朝鮮)が緊急な状況に陥ったとき、はたして日本から保護できるかどうかはきわめて懐疑的」な状態だった。もし「朝鮮が清国以外のなんらかの他の力に頼らなければならない」のであれば、その代案は国境を接した大国である「ロシアに違いなかった」
しかし、これは朝鮮の宗主国を自認する清や、その近くで虎視耽々と機会を狙っていた日本はもちろん、ロシアの南下を阻止するために「グレート・ゲーム」を行っていた当時の覇権国である英国を刺激する可能性のある危険な動きだった。さらに、頼りたいというのは朝鮮の希望事項にすぎず、ロシアがそれを受け入れるのかどうか、また、どのような苛酷な代価を要求するのかはわからなかった。いずれにしても、高宗がそのように考えていたとすれば、重臣たちと熟考して決断を下した後は、揺らぐことのない姿勢で実行しなければならなかった。
具体的な動きが始まったのは1884年12月からだった。メレンドルフは長崎で駐日ロシア公使のアレクサンドル・ダビドフに対して「朝鮮をロシアの保護国にして高宗を保護するために、200人の海軍で構成された艦隊を仁川(インチョン)に送ってほしい」という電報を打電した。外交長官にあたる督弁交渉通商事務の金允植(キム・ユンシク)には一言も伝えなかった。
ダビドフからこの報告を受けたロシア外相のニコライ・ギールス(1820~1895)は、深刻な悩みに陥った。ロシアは1884年7月7日に朝鮮と修好通商条約を締結したが、常駐の公使は派遣していない状況だった。真意を確認しなければならなかった。ギールスが朝鮮へ行く駐日ロシア公使館のアレクセイ・シュペイエル一等書記官に送った電文によると、殺伐とした帝国主義外交の最前線にいた彼の慎重さを読みとれる。「朝鮮がロシア政府に望むことが何であり、これに対して朝鮮が何を提案するのかを知らなければならない。そして、現在の朝鮮が外国列強とある種の取り引きをすることがいかに危険なのか、他国と条約を締結して守ってきた朝鮮の位置づけがいかに脆弱なのかを、メレンドルフがよく理解するようにせよ」。清と日本が目を光らせている状況でロシアに接近することは、戦争を引き起こしかねないきわめて敏感な外交行為であることを伝えたのだ。
軍艦ラズボイニクに乗って1884年12月28日に仁川に到着したシュペイエルは30日、ソウルに到着した。メレンドルフはシュペイエルに、朝鮮をブルガリアのような保護国にするか▽それが不可能ならば、朝鮮を中立化して「アジアのベルギー」になるようにしてほしいと述べた。その代価は、朝鮮半島南部の不凍港であるウンコプスキ湾(浦項(ポハン)の迎日湾(ヨンイルマン))だった。日本を刺激するに違いないきわどい提案だった。慎重なギールスはこれに食いつかなかった。翌年1885年1月20日、朝鮮を保護国にした場合「清または日本と衝突が起き、ロシアが得られる利益よりはるかに大きな犠牲を払うことになるだろう」とする報告書を書き、アレクサンドル3世の裁可を受けた。
朝鮮はそれでもあきらめなかった。甲申政変の修信使の一行として1885年2月に東京に行ったメレンドルフはダビドフに会い、ドイツ語の口上書を渡した。これを通じてロシアに、2000人の兵士を作るために必要な将校4人と下士官16人で構成された軍事教官を朝鮮に送るよう伝えた。
その直後、「グレート・ゲーム」の風が朝鮮半島に押し寄せた驚くべき事件が発生した。英国がロシアをけん制するために4月15日、巨文島(コムンド)を電撃的に占領したのだ。英国はアフガニスタンをめぐる両国の対立が深まった状況のもと、ロシアが甲申政変後の力の空白(清と日本は4月18日に天津条約を結び、朝鮮からの同時撤兵を決める)を活用して朝鮮半島に南下する可能性があることを懸念した。急襲されたロシアは「英国けん制」のために、再度の教官を派遣してほしいという朝鮮の要請を受け入れることにする。ふたたび朝鮮に向かったシュペイエルは6月9日、ソウルに到着した。
一足遅れて高宗とメレンドルフの「秘密外交」を知った金允植は驚いた。清と日本の強力な支援を背景にした金允植は6月20日、24日、7月2日の3回、シュペイエルに会い、「メレンドルフは軍事教官を招へいする権限を委任されてはいない」と強調した。もし高宗がロシアに頼り、清と日本の干渉を振り落とそうとしたのであれば、この反対を押し切り意志を貫徹しなければならなかった。しかし、それ相応の度胸はなかった。高宗は吏曹参判の南廷哲(ナム・ジョンチョル)を7月10日に天津に急派し、これらすべては「メレンドルフの越権」のためだと弁解し、罷免と召喚を要求した。捨てられたメレンドルフは8月末に免職され、11月に朝鮮を去った。
朝鮮のロシアへの接近が日本に伝えられたのは、5月30日に近藤真鋤代理公使の電文を通じてだった。怒りが頂点に達した井上馨外務卿は6月5日、徐承祖駐日清国公使に会い、対応策を議論した。このあきれた会談の内容は『日本外交文書』明治年間追補第1冊の352~365ページに残されている。
井上が言った。
「この国の外交の拙劣さによって、貴国とわが国の両国に災いをも招くだろう」
「鯁直有為(意志が強くて才能がある)の人物を選抜し、自ら改良させるのはどうだろうか」
「今のような状況では効果はないだろう。拙者は以前、朝鮮で王と会った際、近くでその風采をみたが、今年でだいたい34~35歳にみえた。その年齢で事の処理をこのようにするのであれば、賢良な人物を送ってよく言い聞かせて勧めたとしても、進善去悪はできないだろう」
もっと怒っていたのは清だった。李鴻章は高宗をけん制するため、壬午軍乱後から3年も拘束していた「政敵」大院君を帰国させた。また、11月17日には当時わずか27歳だった袁世凱を朝鮮駐箚総理交渉通商事宜に任命し、苛酷かつ露骨な内政干渉に乗りだした。
ひとまず嵐が過ぎ去った10月6日、その後のロシアの親朝鮮政策を主導することになるカール・ウェーバー(1841~1910)が、ロシアの初代公使としてソウルに赴任した。ボリス・パク著『ロシアと韓国』によると、1886年8月5日、明成皇后の最側近である閔泳翊(ミン・ヨンイク)が彼を訪ね、「四方から封じられているなか、朝鮮を助けることができる国家はロシアだけ」だとする高宗の考えを伝えた。4日後の9日には高宗の密書が密かに伝えられた。「寡人(国王の自称)はこれまでの関係を破り、ふたたび朝鮮が他国の影響を受けることのないよう、最善を尽くすだろう。ロシア政府が寡人を捨てずに保護するために最善を尽くすことを期待し、これを秘密に守ることを望む」
高宗の運命を奈落に突き落としかねないこの「極秘書簡」は、驚くべきことに清にそのまま流出する。怒った袁世凱は李鴻章に電報を送った。「この昏君を廃位して李氏のなかから賢明な者を別に擁立するしかありません。そして数千の兵士がその後に従うのであれば、ロシアは、中国の軍隊が先に入ってきたことと韓(朝鮮)が新たな君主に変わったことをみて、手を引くでしょう」
清とロシアは、高宗が行った「サーカス外交」の後始末のため、1886年9月から天津で交渉を始めた。ラディジェンスキー駐清ロシア代理公使は10月24日、朝鮮領土の現状維持を条件に、朝鮮半島に南下しないことを口頭で約束した。清がこのような意向を伝えると、英国も1887年2月に巨文島を去った。清日英のいずれもがロシアの南下を阻止しようと必死になっていた状況下で、高宗が推進したロシアへの接近は、国際情勢の流れを誤読したひどい失敗作だった。この隙間で高宗が生き残ったのは、彼の期待に反し、ロシアが朝鮮に強い関心を持っていなかったためだ。ロシアが実際の朝鮮に手を伸ばしたとすれば、世界の列強が朝鮮半島で衝突する残酷な悲劇が発生したかもしれない。
キル・ユンヒョン|論説委員。大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『1945年、26日間の独立―韓国建国に隠された左右対立悲史』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。
2024/05/28 18:44
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