日本で「韓国語スピーキング大会」28年…ハングルの日に勲章を受章した浜之上幸教授

投稿者: | 2024年10月8日

「先生方や両親のことが思い出されます。本当にありがとうございます」

韓国語を学問として向き合って31年。9日、第578周年ハングルの日慶祝式で最高勲格である玉冠文化勲章を受章することになったベテラン教授の声が震えた。神田外語大学の浜之上幸副学長(67)のことだ。7日午前、記者との電話インタビューで、浜之上氏は勲章を受けることになったのは学生たちや学校、師匠や両親のおかげだとしてその功績を分け合った。

 浜之上氏は30年以上にわたり、「現代韓国語思想の文法体系」を研究してきた。あわせて1996年から日本で全国韓国語スピーチ大会を開催して2006年韓国語学年譜を創刊するなど韓国語の普及のために先頭に立ってきた。

福岡県生まれの浜之上氏は一浪して1976年に東京大経済学科に入学した。良い大学に入ってちゃんとした職に就けという両親の願いに従った優しい息子だった。

だが、もともと浜之上氏の関心は他の所にあった。高3だった1974年、ある新聞で見た記事が彼に夢を与えた。陸英修(ユク・ヨンス)夫人の死亡を伝える記事の後に新聞を購読し始めたが、1カ月間韓国についての連載記事が掲載された。日本の記者が韓国各地を巡って書いた記事は教科書で目にしたものとは全く違っていた。「独裁政権、キーセン観光のような負の面しか知らなかったのですが、韓国人の生活像や文化を紹介した新聞記事を読んで『韓国も人が住む場所なんだな』と思ったのです。感動しました」。

こうして自身の胸中に生じた韓国、韓国語に対する関心を「架橋病」と呼んだ。

「10台後半は変に社会に対する責任感を感じる時があるでしょう? これではいけない、日本人として日韓間の架け橋役をしたいと思いました」。東京大経済学科3年生のとき、「アジア経済」をテーマにした卒業論文準備セミナーで選択したのも韓国経済だった。当時は韓国語を全く知らなかったので日本語で書かれた論文を読んだ。

韓国語になった論文を読みたくて、東京外大朝鮮語学科に3カ月間聴講生として通った。大学を卒業して就職した会社では財務課で働いた。職場生活もおもしろかったが、「人生は一度しかない」と思い直し、1年4カ月通った会社を辞めた。

「もともとやりたかった架橋病に戻ろう」という気持ちで両親を説得したという。「韓国語を勉強して10年すれば教授になれる」と言いながらうそもついた。会社を辞めて東京外国語大を入り直し勉強を始めた。そして1991年韓国国費奨学生としてソウル大博士課程に参加した。

帰国後1993年間、神田外語大の韓国語教授になって夢をかなえた。浜之上氏は「今回の褒賞は私が受けたものではなく、1000人近くになる卒業生が受けたものだ。私はその横にいただけ」と話した。浜之上氏は特に自身が2年間韓国政府留学生としてソウル大学で学んだことについても謝意を表した。「考えてみれば、私が韓国に来れたのも、韓国国民が出した税金があったから」勲章を受けることができたという説明だった。

教授になることができるという息子の「口八丁」を信じてバックアップを惜しまなかった両親、研究を支援してくれた師匠のことも思い出されると話した。浜之上氏は「韓国語研究者として日本での韓国語研究を一層発展させていきたい」とし「これが本当に韓国を尊敬し、尊重することだと思う」と話した。

浜之上氏は妻の健康悪化で9日のハングルの日の勲章授与式に出席することができない。在日韓国文化院が別途日本で今月末に開催する伝授式で勲章を胸に付けることになる予定だ。

一方、今回のハングルの日には、10年間日本語で朴景利(パク・ギョンニ)の小説『土地』を完訳したクオン出版社のキム・スンボク代表と翻訳者の吉川凪氏、清水知佐子氏が世宗(セジョン)文化賞を受賞する。

2024/10/08 09:49
https://japanese.joins.com/JArticle/324652

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)