「恥じるべきなのは日本の方だ」慰安婦被害者イ・オクソンさんが歩んできた道

投稿者: | 2025年5月13日

 「私たちは解放されていません。戦争も終わっていない。これが私たちの戦争です」

 11日に死亡した日本軍性奴隷制(「慰安婦」)の被害者で人権活動家のイ・オクソンさん(98)が2013年、ドイツのある大学で自分が経験した惨状を証言しながら放った言葉だ。1942年に中国に連れて行かれた故人は、2000年に韓国に帰ってきてから京畿道広州市(クァンジュシ)の「ナヌム(分かち合い)の家」に滞在した約20年間、日本政府に謝罪を求める記憶の闘争を止めなかった。

 1941年、釜山(プサン)に住んでいた14歳の少女オクソンは、毎年学校入学シーズンにそうだったように母親を引き止めて「学校に行かせてくれ」とせがんで泣いた。貧しい家で口を一つでも減らそうと、学校ではなく、他の家に女中として送られた。あちこちの家を転々としていたオクソンは、蔚山(ウルサン)にお使いに行ってくる途中、見知らぬ男たちに捕まり「慰安所」に連れて行かれた。家族はオクソンの生死を知る術がなく、死亡届を出した。

 「昔はその歴史が恥ずかしくて」と言い出せなかったイさんは、2002年、米ブラウン大学での講演を皮切りに、世界各地を回りながら証言の先頭に立った。日本軍の刀剣に刺されて手や足などに傷跡が残り、殴打の後遺症などで動くのがやっとだったが、日本と韓国、両国政府を動かすために断固たる対応に乗り出した。2006年の韓日請求権協定と関連した憲法訴願審判の請求、2013年の日本政府に損害賠償を請求する民事調停申請など、各種訴訟で他のハルモ二(おばあさん)たちと共に当事者として参加し、勝訴判決を数回引き出したりもした。

 日本軍「慰安婦」被害者問題を巡り日本政府と交渉に出た朴槿恵(パク・クネ)政権が2015年12月28日、被害当事者らを排除した合意をすると、イさんは冷たい風が吹き荒れる氷点下の寒さにもかかわらず、水曜デモに参加し、「日本に金をもらって私たちを再び売り飛ばした」と強く批判した。

 戦争性暴行被害者でありながら、人権活動の先頭に立ったイさんの人生は、漫画『草』、映画『エウムギル』、『鬼郷』などで記録された。漫画家のキム・クムスクさんは昨年『草』の改訂版(2024年)序文で、「主人公のイ・オクソンさんと友人のミジャを通じて女性が体験した暴力に対して普遍性を念頭に置いて描いた」とし、「最後を絶望と怒り、嫌悪と憎しみではなく、踏みにじられても再び立ち上がろうと、回復しようと努力する人間の意志を象徴的に表現しようとした」と明らかにした。「風に倒れ、踏まれても再び立ち上がる草」はイさんの人生を象徴する。光州広域市南区楊林洞(クァンジュ・サムグ・ヤンリムドン)ペンギン村の入り口には作家のイ・イナムさんがイ・オクさんをモデルに作った「平和の少女像」もある。イさんは、イ・オクソンさんの16歳の少女時代の姿と92歳の姿を並べて製作した。過去と現在が共存するという意味が込められている。

 京畿道龍仁市(ヨンインシ)のシル(休む)楽園京畿葬儀場に設けられた殯所で、12日に会った弔問客たちは、故人を「剛直で固い意志を持った人権活動家であり、情に厚いハルモ二」として記憶していた。韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の活動家で、2000年代初めにイさんと縁を結んできたキム・ドンヒ戦争と女性人権博物館長は、「分かち合いの家から(日本軍性奴隷制問題解決のための水曜デモが開かれる)ソウル鍾路区(チョンログ)の駐韓日本大使館前まで、往復3~4時間の距離であるにもかかわらず、参加したいという意志が非常に強かった」と語った。特に「水曜デモで若い世代と共にスローガンを叫ぶことが非常に重要だと考えていた」と付け加えた。キム館長は、イさんがベトナム戦争の民間人虐殺の真実を記憶するための平和博物館建設運動に後援をするなど、他の戦争被害者のための活動にも力を添えたと伝えた。

 韓国に帰ってきた後、ナヌムの家で生活していたイさんは、昨年2月、健康が悪化し、京畿道城南市(ソンナムシ)のある療養病院に移り住んだ。ナヌムの家と療養病院でイさんの交互に世話した療養保護士のキム・ボミさんとキム・ジョンヨル氏は「か弱く見えても決断力がある方」だとし、「腎臓透析で苦しんだにもかかわらず、周りにいつも『愛してる』と愛情を表現し、記憶力も良くて(ハルモ二の)人生の話もたびたび聞かせてくれた」と記憶した。

 ナヌムの家で約20年間ボランティアを行ってきたコ・ミョンギルさん(53)は「外国に行って(被害を)証言するのは簡単ではななかったはずなのに、機会があれば積極的に乗り出した」と振り返った。イさんは2019年1400回目の水曜デモを控えてハンギョレとのインタビューに応じ、青年世代に対し「歴史をたくさん知ってほしい」と語った。「日本政府はハルモ二たちが皆死ぬのを待っているが、私たちが死んでいなくなっても、後代と歴史のために日本がこの問題に対して謝罪するよう(後の世代が)しなければならない」と話した。イさんの死亡で政府に登録された日本軍「慰安婦」被害者240人のうち生存者は6人に減った。生存者の平均年齢は95.6歳に達する。

 イさんと共に日本軍「慰安婦」真相を全世界に知らせる活動を積極的に繰り広げてきた97歳のイ・ヨンスさんは12日午後、喪屋を訪ね「姉さん」であり、活動家の同僚に最後の挨拶をした。イ・ヨンスさんは遺影写真の前で黙祷した後、「姉さん、気楽に行ってください。やり残したことはヨンスが全部やります」と声をかけた。

 全国大学生連合サークル「平和ナビ(蝶)ネットワーク」は11日に出した追悼声明で「私たちに恥じることなんてない。恥じるべきなのは日本の方だ」という生前のイさんの言葉を引用し、「イ・オクソンさんの足跡と声を大学生たちが受け継いでいく」と述べた。彼らは「私たちの記憶闘争の中でイさんの人生は決して忘れ去られず、これは日本政府の公式謝罪と法的賠償を必ずもたらすだろう」と付け加えた。

 イさんの出棺は14日午前10時で、遺体は国立望郷の園に安置される。同日開かれる第1700回水曜デモは故人の追悼祭を兼ねる。

2025/05/12 23:50
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/53177.html

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)