朝鮮ニンジンが伝来したのは江戸時代。鹿沼地域の近くに東照宮があり、朝鮮通信使はこの地域を三度も訪れた。
当時、朝鮮ニンジンは日本で金や銀と同じくらい貴重な存在。徳川幕府は朝鮮から朝鮮ニンジンを高値で買い入れた。朝鮮ニンジンの代金を支払うために莫大な支出が発生し、徳川幕府8代将軍が財政改革に出るほどだった。当時幕府は財政改革の一環として朝鮮ニンジンの国産化を目指した。陳さんは「対馬から徳川幕府に朝鮮ニンジンの種60粒を献上し、そのうち3粒を栽培に成功して300年以上続くことになった」と説明した。
幕府が管理していた鹿沼一体に朝鮮ニンジンの畑が作られたのは1729年以降のことだ。許可を受けた者だけが栽培できたが、生産者は176人に達した。1800年には朝鮮ニンジンの集荷と加工を担当する「朝鮮ニンジン中製法所」が作られるほど盛んだったが、現在はなくなってその場には板荷小学校が建っている。
陳さんは2020年私財を投じてここに朝鮮ニンジン中製法所があったという記念案内板を設置した。「若い学生たちに朝鮮お種ニンジンがここで栽培されていたことを教えたかった」という。この日午後、案内板を見るために訪ねた学校。小高勝則校長は衝撃的な話を伝えた。「現在全校児童が30人規模だが、来年は10人に減少し、3年後には廃校になる」とのことだった。「記念案内板はどうなるのか」という質問に校長は申し訳なさそうな表情を浮かべた。陳会長はしばらく言葉を繋ぐことができなかった。
日が暮れかけた時間、再び車を渡辺農場へと回した。山で囲まれた人気のない田畑の間に小さな朝鮮ニンジン畑が現れた。種を残すために80代になる今まで朝鮮お種ニンジンを栽培している渡辺さんは持病の治療のために外出中だった。許可をもらって小さな朝鮮ニンジン畑を見て回り始めた。腰を曲げて畑のニンジンを見ていた陳さんの口から感歎詞がこぼれた。
「これ、ちょっと見てください!」小さな畑にひしめく朝鮮ニンジン。青々とした緑の葉、夕陽に輝く種が目に飛び込んできた。
「この種、この葉を見れば、渡辺さんが丹精込めて栽培していることが一目で知ることができます。この朝鮮ニンジンは渡辺さんが人生を捧げて愛情と魂を込めて作った芸術作品ですね。うれしいことこの上ありません!」
陳さんはなぜこのように朝鮮ニンジンにこだわるのだろうか。栃木県足利市で生まれて「在日」として生きてきた彼にとって、どの在日同胞も抱く痛みの時間があった。韓国人なので就職さえ容易ではなかった時期があった。中央大学法学科を卒業した後、ある国立大学大学院に進学しようとした。二度志願してすべて筆記試験では合格したが二度とも面接試験で苦杯をなめなければなかった。あらゆる苦難の末、不動産開発業で成功した陳さんは今でも韓国国籍を維持し、韓国の名前を使っている。
「韓国に行けば私たちは日本人だと言われ、日本では韓国人と見られます。しかし重要なのはルーツです。ルーツは絶対に変わりません。2つの画が互いに寄り添った漢字『人』に似ている朝鮮ニンジンもそうでしょう。源流である韓国の朝鮮ニンジン、そしてこれを基に栽培に成功した日本のお種ニンジン。この二つが互いに仲良く一つになれば最高のニンジンになると思うのです」
陳さんは今年韓日修交60周年を迎えて必ず伝えたい言葉があると話した。
「歴史的事実を教育を通じて知らせていけば両国の国民は互いのことをもっとよく理解することができるでしょう。朝鮮通信使のように朝鮮ニンジン、朝鮮ニンジンの花が両国を繋いてくれるという思いで、これからもこの仕事を一生懸命やっていこうと思っています」
2025/06/20 17:50
https://japanese.joins.com/JArticle/335301