「朝鮮の美を日本の誇りに」 400年にわたる朝鮮陶工の後裔(2)

投稿者: | 2025年6月21日

彼は最近の話をした。数学旅行で沈寿官窯を訪れた東京の高校生のことだった。生徒らは長崎を訪れて原爆被害の話を聞き、水俣に行って水俣病問題を学んで来た。彼は尋ねた。「日本政府が原子爆弾被爆者援護法律を定めたのがいつと思うか」。生徒たちは驚いた。「原爆被害から50年後の1995年に施行された。米軍の爆弾に死亡した日本人のための法が50年後に作られた。それではその時、長崎で命を失った、当時長崎に住んでいた朝鮮人、台湾人はどうだったのか考えたことがあるだろうか」。黙って聞いていた生徒たちに彼がまた話した。「彼らの慰霊碑がどこにあるか知っているだろうか。遺体はどこにあるだろうか」。

彼はなぜこのような質問を生徒たちに投じたのか。「こういうものは日本にたくさんある。例えば足尾銅山(多くの朝鮮人犠牲者が出た栃木県の銅山)もそうだ。こういうものをどうするのか、みんなが知恵を出さなければいけないと考える」。

 歴史に対する彼の長い悩みが表れた。

「私たちは過去をすべて知っていると錯覚している。なぜこのようなことが起きたのかに目を向ければ、知らなかったことも新しく発見できる。こうした意味で歴史は本当に重要だ。憎しみを増幅させるためにあるのではない」。

重い内容だったためか、彼は携帯電話の中の写真1枚を見せた。澄んだ目の孫だった。孫の写真を見るだけでも笑顔になる祖父の姿だ。彼の後を継いで16代沈寿官として襲名した息子の話をした。

「親は子どもがしたいようにさせるのが第一だと考える。16代は本当に大変だと思う。今は私の時代、私の同僚、私の客の時代であり、この人たちは私とともに老いていく。息子は息子の世界を作っていかなければいけない」。

–今後の夢は。

「私は日本人が誇らしいと思う伝統陶芸の仕事をしたい。鹿児島にこのような陶磁器がある。日本人がこれを自分たちの誇りと感じる時、私が韓国に恩返しする日だと考える。これが私には遠い故郷に恩を返す道だ」。

話は先祖の沈当吉の時代に遡った。鹿児島に来た朝鮮の陶工は故郷で使用していた原料を探し始めた。しかし同じ土を探すことはできなかった。17年後に彼らが作ったのもは、見たことも触ったこともないものだった。

「先祖は開拓者だった。鹿児島の薩摩焼は大きな意味で遺伝子(DNA)は朝鮮、白磁かもしれないが、彼らが手にした素材は全く違うものだった。このように初代、2代、3代と築いてきた。薩摩焼が目指してきた美を愚直に追求していく。『回る糸車の動かない芯」の話を父がよくしていたが、真ん中の芯は動かない。時代に流されず芯を求めていく」。

最後の彼の話だ。「数百年受け継いできたものに私たちの根がある。会ったこともない祖先が守っていると考える。実際にそれを感じる時があった。先祖に恥じることはしたくない。韓国人にも日本人にも誇りに思われたい。これが私が韓国に向けて見せられるものだ」。

2025/06/21 12:01
https://japanese.joins.com/JArticle/335306

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