100年ぶりに日本から韓国に戻ってきた「観月堂」…続く悲運の歴史ミステリー(1)

投稿者: | 2025年6月25日

歴史の痛みを秘めた朝鮮時代王宮の祠堂建築物「観月堂(クァンウォルダン)」が日本に搬出されて約100年ぶりに約5000点の部材(構造物の主要材料)に解体されて韓国国内に戻ってきた。切妻の瓦屋根に正面3間、側面2間(約54平方メートル)のこの平屋(高さ5.1メートル)の木造建物は日本の有名寺院「高徳院」で国宝「鎌倉大仏」の裏に隠されていた。2000年代以降、韓国返還問題をめぐって曲折があり、韓日国交正常化60周年を迎えた今年、実を結んだ。

国家遺産庁と国外所在文化遺産財団は24日、ソウル景福宮(キョンボックン)内の国立故宮博物館でメディア公開会を開き、前日、高徳院の佐藤孝雄住職(62)との約定を通じて観月堂の部材を正式に譲り受けたと明らかにした。1924年、朝鮮殖産銀行が日本の実業家である杉野喜精(1870~1939、山一證券初代社長)氏に建物を贈与して101年ぶりのことだ。当時、殖産銀行はこの建物を借金の担保物として持っていたという。

 杉野氏はこれを東京目黒の自宅に持って行き、病気の治療のために訪れた鎌倉の高徳院に寄贈した(1934~36年推定)。 高徳院はここに観音菩薩像を祀り、祈祷の場として活用した。観月堂は1990年代、牧園(モグォン)大学のキム・ジョンドン名誉教授によって存在が知らされて返還をめぐる議論が始まり、2010年返還直前まで行ったが韓日関係の膠着、コロナ禍などで先送りされてきた。

昨年6月、関連協約書が締結され極秘裏に解体作業が始まった。その年の11月、瓦や石材を始め、5月に木材まで順次韓国に搬入された部材は京畿道坡州(キョンギド・パジュ)の伝統建築修理技術振興財団の収蔵庫に保管されている。石材や金物401点、瓦3457点、木材1124点など計4982点に達する。海外に搬出された建築遺産が建物全体に戻ったのは今回が初めてだ。

この過程で佐藤住職は建物を解体し、部材を移す費用まで自費で負担するなど、事実上「条件をつけない寄贈」を行った。この日のメディア懇談会に参加した佐藤住職は「2002年の住職就任の時から韓国から来た文化遺産なので返したいと思った」とし「韓日関係が良くない時もあり、送り返すのに時間がかかった」と話した。

慶応大学民族学・考古学教授でもある佐藤住職は、外交官(駐国連大使歴任)である叔父の影響などで、帝国主義と植民地文化遺産の関係に関心が高かったという。「2010年返還報道(事実上誤報)が出た時、日本の右翼から脅迫電話も受けた」という佐藤住職は「観月堂は切り取られたものではないが、文化遺産の価値は歴史的流れを切り離すことができず、僧侶の立場でも故人をたたえる建物なので、近い(意味に合う)所に返さなければならないと考えた」と寄贈の背景を伝えた。

さらに、韓日間の文化遺産研究と学生交流のための別途の基金を1億円ほど設け、国外所在の文化遺産財団に寄付するとも述べた。「昨年末、(韓国の)戒厳事態以降、不安があったが、『日本は戦略的パートナー』と言った〔李在明(イ・ジェミョン)〕大統領の言葉もあり、韓日関係が急速に冷え込むとは思わない」と言った。観月堂の寄贈を決心した後、外務省と日本国文化庁と緊密に疎通・協議し、民間レベルでの寄贈であるため、鎌倉大仏が位置する史跡の現状変更を問題視しない状況だと説明した。

やっとの思いで戻ってきたが、「観月堂ミステリー」は続く。ひとまず日本で呼ばれてきた名前である観月堂が当初の名称ではなく、元々どこにあったのかも不明だ。昨年の建物解体の際、上樑文(木造建物の増改築記録物)が発見されず、そもそも誰のための祠堂として使われたのかも分からない。

2025/06/25 10:46
https://japanese.joins.com/JArticle/335466

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