大阪・東京大空襲に遭った「朝鮮人1万人」の名前も葬られた

投稿者: | 2025年7月8日

 「ものすごい空襲警報が鳴り、耳を切り裂くような音がしました。無我夢中で逃げる途中で、足元がおかしくて見てみたら、死体を踏んでいました」

 1日、日本の大阪寺の崇禅寺小禅寺で大賀喜子さんは80年前に残酷だった話を代わりに語っている間、悲しみを隠せなかった。大賀さんは太平洋戦争末期の1945年6月、米軍の大阪大空襲被害者であるチン・ジョンソンさん(91)の人生を10分余りの「1人称」の物語にして人々に痛ましい歴史を伝えている。辛い戦争体験を近隣の学校などで語り、平和を訴えてきたチョンさんが高齢で活動が難しくなったことを受け、崇禅寺の戦災犠牲者追悼慰霊祭の実行委員として縁を結んできた大賀さんが、語り部としてチョンさんの話を伝えることにしたのだ。この日、大賀さんの声にはまるでチョンさんの魂を呼びよせたように切々とした苦しさがにじみ出ていた。

 「トトトドーンという音とともに焼夷弾が雨のように降り注ぎ、周辺は火の海へと変わりました。昼間なのに黒い煙で空が黒くなり、気がつくと黒い雨に体がびしょ濡れになっていました。父が大混乱の中で見つけてくれたが、母と他の家族の 3人はどこにも見当たりませんでした。父が家族の遺体でも連れてこようとしたが、警備隊に個人がむやみに(遺体を)運んではいけないと言われたそうです」

 「その時、12才だったのに、今や母親の顔が思い出せず、ご飯をおいしく食べていた記憶しか残っていない」とし、「空襲で家も燃えてしまって、すべてを失い、写真も残っていない」と語った。さらに「日本が戦争を2カ月早く終わらせていれば、家族の誰も死なずに済んだのにと今でも思う」と話した。崇禅寺には大阪大空襲当時、犠牲になった朝鮮人73人を含む518人の慰霊碑が建てられている。チョンさんは2021年8月、この寺の住職に許可を得て家族4人の韓国名を碑石に刻んだ。

 米軍は太平洋戦争の終盤だった1945年、日本の戦争意志を完全に挫くためため、戦略爆撃機B29を動員して日本本土に大規模な空爆を行った。3月9日の東京、4日後の大阪などに焼夷弾数十万発を浴びせ、都市を火の海にし、東京と大阪だけで11万人以上の犠牲者が発生した。このうち、朝鮮人が1万人以上含まれているものと推定される。韓日政府の無関心の中で、この80年間その名前も埋もれてしまった人々だ。

 韓国政府が米軍の日本大空襲当時に死亡した朝鮮人犠牲者について把握したのは、2012年首相所属の「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」が確認した95人のみ。日本では市民団体「大阪空襲朝鮮人被害者追悼集会実行委員会」が毎年大阪大空襲当時に犠牲になった人々と関連した資料を追跡し、これまで朝鮮人被害者簿167人を把握した。

 名誉回復や遺族に対する被害補償もはるかに遠い話だ。日本政府は1945年の米軍大空襲当時、日本にいて被害に遭った民間人に対して被害補償を行っていない。2009年東京大空襲被害者の損害賠償請求訴訟に対し、東京地裁が「戦争被害者に対する救済は政治的配慮を基にした立法を通じて解決すべき問題」だとして棄却した。戦争当時、国民皆が苦痛に耐えてきたため、一部だけに補償するわけにはいかないといういわゆる「戦争被害受忍論」を展開している。そして日本政府は不法的植民支配の余波で日本に留まった韓国、台湾、中国など外国人に対しても、このような論理を適用している。最近、日本の執権自民党と第1野党の立憲民主党の国会議員たちが含まれた超党派の国会議員連盟が「特定空襲等被害者に対する一時金の支給等に関する法律案」を用意し、先月定期国会中の成立を目指したが、提案を断念した。同法案は東京や大阪大空襲など戦争被害者に「一時金50万円(約470万ウォン)」を与えることを柱としている。「国籍条項」をなくしたことで、朝鮮人被害者も対象に含まれるようになった。全国空襲被害者連絡協議会の黒岩哲彦運営委員長(弁護士)はハンギョレに「法案について議論する過程で国籍条項が『人権侵害』であり、『人類愛にかかわる問題』という指摘があった」とし「ヒューマニズムの面でも国籍条項をなくすことは当然で、『排外主義と自国優先主義の強化』の動きに立ち向かう意味があると思う」と説明した。

 不法な日帝植民政策の余波で日本で悲劇的被害に遭っても忘れられた人たちが依然として多い。1945年、日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾で被害を受けた人々の境遇も大きく変わらない。当時、両地域に滞在していた朝鮮人4万人が死亡し、7万人余りが被爆したことが分かった。広島と長崎で朝鮮人被爆者が多かった理由は、多くの朝鮮人が軍需工場が多かった二つの都市に強制動員などで海を渡った場合が多かったためだ。しかし、韓日政府は1965年の韓日請求権協定でこの問題はまったく取り上げられなかった。日本政府が1957年「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」そして1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」を作り、医療費および生活保護金を被爆者に支給したが、被害者たちの至難な闘争の末に、韓国人被爆者がその対象になるまでは、40年もの歳月を要した。

 しかし、原爆被害者の子孫や日本と国交がない北朝鮮内の被爆者は、支援対象に含まれていない。北朝鮮にも依然として原爆被害者が多数生存していると推定される。今年で被爆経験した人の最年少年齢が80歳になった。国家人権委員会が2005年生存被爆者規模を7500人余りと推算したが、大韓赤十字社統計では昨年1834人に減った。

 日帝強占期(日本による植民地時代)の痛い歴史は韓日だけでなく遠くサハリンにも傷跡を残している。1930~40年代、日帝によってサハリンに強制動員された人たちは、酷寒の中で炭鉱、伐木場、軍需工場などで労働を余儀なくされた。太平洋戦争の敗戦後、日本軍は朝鮮人をサハリンに置き去りにした。当時、約4万人の朝鮮人が難民となった。ソ連当局は朝鮮人を故国に帰さず、「ロシア語を駆使できず、日本人と似た外国スパイの疑いのある監視対象」であり、共産主義に教化する対象とみなした。彼らは日帝によって動員されたが、日本国籍ではないとの理由で、日本に行くことさえできなかった。

 サハリンに残された人たちは生き残るためにロシア国籍あるいは北朝鮮国籍を選び、一部はそれもままならず貧しい無国籍の異邦人として生きていかなければならなかった。韓国政府はソ連と国交樹立がないという理由で彼らを数十年間無視し、1990年の韓ソ国交樹立後も放置した。祖国から保護されなかった彼らの苦しみは次の世代に受け継がれた。サハリンで生まれた遺族たちは国籍が韓国ではないという理由で、「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援に関する特別法」が定めた慰労金さえ受け取ることができなかった。国会立法調査処がすでに8年前に「対日過去史被害者としてサハリン同胞の特殊な状況を認識する必要があるという多数の意見にもかかわらず、支援から排除された人々が存在する」と指摘した事案だ。

2025/07/08 06:00
https://japan.hani.co.kr/arti/international/53674.html

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