夏のまぶしい日差しの下、エメラルド色と藍色が調和してうねる沖縄の海は美しかった。沖縄本島から40分あまりの渡嘉敷島へと向かうフェリーの案内文には、「海の楽園渡嘉敷」と記されていた。しかし、ある人にとってそこは「地獄」だった。
熱い日差しが照りつけていた先月22日、渡嘉敷港から200メートルあまり離れた静かな田舎の家々の間にある「赤瓦の家」跡は、平和な空間のように見えた。しかし、そこは日帝強占期に日本軍慰安婦にされた故ペ・ボンギさんにとっては恐ろしい記憶が刻まれた場所だ。太平洋戦争末期の1944年11月、10坪あまりの敷地に日本軍の慰安所が作られ、ペさんは慰安婦生活を強要された。この日、取材に応じた住民のヨシカワヨシカツさん(87)は、「小学校時代、村に慰安所ができて、7人の朝鮮人女性が住んでいた。その中に『ペ・ボンギ』という人がいた」ことを覚えていた。ヨシカワさんは「赤瓦の家はもともと『ナカマジョー』と呼ばれていたうちの叔父の家だったが、日本軍が家族を追い出して慰安所にした。一度、我が家で日本軍の将校たちが慰安婦を連れてきて酒席を持ったこともある」と話した。ヨシカワさんは「子どもの頃だったが、私の同年代たちが慰安婦のことを『朝鮮ピグア』と呼んでいたことを覚えている」と付け加えた。「朝鮮ピー」とは日本軍慰安婦を意味した俗語で、沖縄では「グア」という語を後ろにつけると愛称のように聞こえるという。
ペさんは、日本軍慰安婦被害を世間に初めて明かした証言者だ。ペさんは日帝強占期に「女衒(ぜげん)」にだまされて1944年11月に沖縄に連れて来られた。「精算所」で切符を買った兵士たちが列を作り、おぞましいことが毎日行われた。終戦後もペさんの悲劇は終わらなかった。故郷に帰れず、米軍の収容所を転々としなければならなかった。生前、ペさんは「『戦場でのこと』が恥ずかしくて故郷に帰れなかった」と語っていた。1975年前後に、朝鮮人に与えられる特別永住権を得ようとしていた過程で、日本のマスコミでペさんの過去が公開された。ペさんは韓国で「慰安婦被害者」問題の解決を求める声が高まっていた1991年10月18日、ついに故郷の地を踏めぬまま、沖縄で苦しい人生を終えた。
日帝強占期の沖縄は、ペさんのような慰安婦だけでなく朝鮮人の軍人・軍属、労務者の強制動員が一地域で起きた、まれな場所だ。日帝強制動員被害者支援財団は強制動員のことを、日帝がアジア太平洋戦争(1931~1945)を遂行するために国家権力によって帝国の領域に対して実施した人的、物的、資金動員政策を意味すると説明する。よく強制動員という言葉は労務者の強制動員について語る時に用いられるが、広くみれば被害類型は大きく軍人、軍属、労務者、慰安婦を包括する。
先月21日にハンギョレが訪ねた沖縄県本部町健堅の港の近くの駐車場跡には、朝鮮人「キム・マンドゥ」(創氏改名後の名は金山萬斗)、「ミョン・ジャンモ」(明村長模)の名が記された小さな案内板が立っていた。彼らは1945年1月22日、港で軍事物資の積載作業をしていたところ、米軍の空襲にあって犠牲になり、近隣に埋葬されたと推定される。ここは2020年に韓国の市民団体「平和の踏み石」と日本の「本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」が、日本軍の軍属として動員されたキムさんとミョンさんの埋葬推定地と推定し、70人あまりの調査団を動員して12日間にわたって発掘を試みた場所だ。結局、遺骨発掘には至らなかったが、韓日の市民は志を共にし、この場所にムクゲなどで飾った「健堅の花壇」を作り、キムさんやミョンさんら14人の犠牲者の名を記した。現地で取材に応じた本部町戦跡保存会の事務局長、中山吉人さんは「健堅の花壇は追悼の空間であり、侵略戦争を反省し平和を願う場所」だと説明した。
健堅から車で1時間の距離にある読谷村瀬名波の小道には「恨之碑」が立つ。碑石には「(日帝強占期)朝鮮半島から100万人以上と言われる人々を強制連行し、日本軍の軍夫・性奴隷として使役した」と記されており、朝鮮人の痛みを記録している。沖縄の民衆彫刻家、金城実さんの手による碑石の横のレリーフには、小銃の銃床を振り回す日本兵と連行される朝鮮人青年、彼の足をつかんで泣き叫ぶ年老いた母親の姿が切々と描かれている。
今年で解放80年を迎えたが、日帝強占期の朝鮮人の被害例は今も日本全域に記録として残っている。「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」によると、朝鮮半島内外で軍人、軍属、労務者として強制動員された人の数は延べ780万人あまりにのぼる。朝鮮半島だけで655万人あまり、海外に連れて行かれた人も125万人あまりに達する。朝鮮半島の外に強制動員された労務者は104万人、日本軍に配属された軍人・軍属も20万人を超える。これは延べ人数で、重複動員も含まれる概念であるため絶対的な数ではないが、被害規模が広範だったことを示している。
1991年から35年間にわたって朝鮮人強制動員の真相究明に取り組んできた日本人研究者の竹内康人さんが昨年改訂版を出した『戦時朝鮮人強制労働調査資料集2』によると、確認可能な強制動員の現場は実に2700カ所あまり。朝鮮人犠牲者の追悼碑も日本全国に170カ所以上ある。戦争の真っ最中には中国、満州、フィリピン、南太平洋の「南洋諸島」(中西太平洋ミクロネシア一帯の島々)へも強制動員が行われた。解放から80年たったが、彼らの被害は回復していない。韓国政府は、1965年に韓日請求権協定で受け取った無償の3億ドルのうち91億ウォンあまりを、動員され死亡した8552人(1人30万ウォン)の犠牲者と債権などの証書に対する補償金(7万4963件、1円当たり30ウォン)として支給するにとどまっている。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2007年に制定された「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者などの支援に関する法律」では、死者・行方不明者、負傷者、給料・手当てなどの未払い被害者には、一部補償が実現している。しかし、加害者である日本の政府や企業の賠償ではなかったうえ、金額そのものも少なかった。
韓日の市民の数十年の闘争の末、韓国最高裁は2018年、労務者の強制動員被害について日本企業に賠償を命じる歴史的判決を下した。日帝強制動員市民の会のイ・グゴン理事長はハンギョレに、「最高裁判決は金の問題だけでなく、侵略戦争と反人道的な違法行為の責任を問うという、重い意味が込められている」と説明した。しかし、この記念碑的判決に対し、日本は韓日請求権協定違反だとして反発し、輸出規制などの報復措置を取った。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は2023年3月、日本の加害企業に代わって韓国の財団が補償金を支給する第三者弁済案を強行し、判決を無力化した。
時間はほとんど残されていない。日帝強制動員市民の会によると、日帝強占期に国外に強制動員された軍人軍属、一般労務者のうち、確認可能な生存者は今年1月現在、640人に過ぎない。政府に登録されている「慰安婦」生存者も6人のみだ。まだ明らかになっていない強制動員犠牲者などのさらなる被害の真相究明がなされるべき、との指摘もある。日本政府は、強制動員の被害や犠牲者に関する多くの資料を依然として公開していない。韓日の市民団体が断続的に公開される資料を手作業で確認しているが、動員者名簿などについての体系的な真相究明作業は行われていない。民族問題研究所のキム・ヨンファン対外協力室長はハンギョレに、「2018年に最高裁判決でついに『1965年体制』の壁を越えたが、依然として明らかになっていない過去事の真相究明や犠牲者の遺骨返還などの課題が山積している」として、「李在明(イ・ジェミョン)政権は過去事に関する委員会の設置などに積極的に取り組む必要がある」と語った。
2025/07/08 06:00
https://japan.hani.co.kr/arti/international/53677.html