「失敗したら飛び込んで死のう」…ゼロから作った製鉄所、韓国製造業の心臓に(1)

投稿者: | 2025年10月20日

「18世紀後半に英国から始まってドイツに、米国を経て再び日本に」――。

世界の鉄鋼産業の主導権はこのように流れた。国別の産業競争力の変化とも一致する。これほどなら鉄鋼を「産業のコメ」ではなく「産業の成長板」と呼んでも良さそうだ。

 日本の次にはポスコを前面に出した韓国が浮上した。「失敗すれば全員右向け右で迎日湾(ヨンイルマン)に飛び込んで死のう」という、いわゆる「右向け右精神」で始まったポスコは、韓国の自動車、機械、造船、建設から防衛産業、エネルギー、電子分野に至るまで多様な高機能鉄鋼製品を供給し韓国が製造強国としてそびえ立つ歴史を作った。

韓国が鉄鋼産業の重要性に目を向けたのは政府樹立直後だった。1949~53年に実行しようとしていた産業復興5カ年計画に鉄鋼をはじめ、建設、電力、交通部門などに集中投資するという内容を盛り込んだ。復興計画は戦争で支障が出たが、鉄鋼が重要だという認識は戦争によりさらに高まった。戦争後には廃虚から出たくず鉄を溶かして産業素材に使った。しかし小規模であり、くず鉄は枯渇した。

61年3月、韓国商工部は鉄鋼総合開発計画を再び立てた。5・16政変により成立した軍事政権もこれを受け継いで鉄鋼産業を起こす借款導入を模索した。64年末、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が鉱夫と看護師と会った西ドイツ訪問には鉄鋼産業などに向け借款を得ようという目的もあった。当時西ドイツの鉄鋼企業で働いたキム・ジェグァン博士が「韓国鉄鋼工業育成案」を伝達した。育成案には「100万トン規模の一貫製鉄所が必要だ」などの内容が盛り込まれた。この報告書は実際に浦項(ポハン)総合製鉄建設の下絵となった。浦項製鉄第1期設備規模が103万トンだった。

◇朴正熙「私は高速道路、朴泰俊は製鉄所」

西ドイツに行ってきた翌年6月、朴正熙が朴泰俊(パク・テジュン)大韓重石社長を青瓦台(チョンワデ、大統領府)に呼んだ。「私は京釜(キョンブ)高速道路を直接監督する。きみは総合製鉄所を引き受けろ。高速道路にでき製鉄所ができるその日にはわれわれも工業国の夢を実現することになるだろう」。

夢を現実にするためには何より資金が必要だった。製鉄所建設の資金がなかった。海外から借款を得るため66年に米国、西ドイツ、イタリア、英国の企業が参加する対韓国際製鉄借款団(KISA)を構成した。しかし世界銀行と国際復興開発銀行(IBRD)の敷居を超えることはできなかった。世界銀行と国際復興開発銀行は「韓国に総合製鉄所を建設するのは経済的妥当性が低い」と評価した。

窮すれば通ずというものか。突破口を見つけた。米国でKISAからひじ鉄を食らった帰り道、朴泰俊がアイデアを出した。対日請求権資金を活用しようという、いわゆる「ハワイ構想」だった。簡単ではなかった。資金をどこに使うのかはすでに日本と協議を終えた状態だった。これを変えなければならなかった。日本を説得した末に結局やり遂げた。

対日請求権資金を使ったという事実は浦項製鉄の役員社員に妙な負債意識を抱かせた。70年4月1日の浦項1期設備着工式で朴泰俊は役員社員にこのように話した。「浦項総合製鉄は先祖の血税で作る製鉄所だ。失敗すれば先祖に罪を犯すものであるから命を懸けて働かなければならない。失敗すれば全員『右向け右』で迎日湾に飛び込んで死ななければならない。製鉄報国! これからこの言葉はわれわれの人生哲学にならなければならない」。

技術は比較的無難に解決できた。自国内に新規鉄鋼設備投資の需要がないと判断した日本が設備を韓国に販売し技術を支援した。

製鉄所建設は戦闘を行うよう昼夜関係なく進められた。朴正熙は朴泰俊に印籠のごとく自身の署名入りの書類を持たせて建設を後押しした。必要であれば浦項製鉄の思うままに随意契約をしても良いなどという内容だった。実際にこの書類を使いはしなかったが、朴正熙の信頼と朴泰俊の責任感を推し量れる。

2025/10/20 12:02
https://japanese.joins.com/JArticle/339982

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