「母と木浦(モクポ)の市民のおかげです。ただ光栄の一言に尽きます」
2025年度秋の叙勲で日本政府から旭日双光章を受章した尹基(ユン・ギ、日本名・田内基)理事長は、何度も「感謝」の言葉を繰り返した。「通常、在日同胞2世は苦労が多いと言われるが、私は運が良かったのかもしれない」と語る尹氏が最初に口にしたのは、日本人の母親・尹鶴子(ユン・ハクジャ、日本名・田内千鶴子、1912~1968)のことだった。
日本朝鮮総督府の役人の娘だった母親は、日帝強占期に木浦(モクポ)貞明(チョンミョン)女子高校で音楽を教えていた。偶然、あるきっかけでボランティアに訪れた先が孤児院「共生園」だった。
尹氏の父であり伝道師の尹致浩(ユン・チホ、1909~?)が1928年10月、木浦・儒達山(ユダルサン)のふもとに、難破船の木材を使って建てた孤児院施設だった。「天国では日本人も朝鮮人も区別はない」という言葉とともに結婚を許された2人の間に、息子の尹基が生まれた。
解放後の1949年に撮影された写真には、共生園の子どもたちと同じようにズボンだけをはいて、座っている尹氏の姿が写っている。韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、戦乱の中でも子どもたちの食べ物を求めて外に出た夫はそのまま帰らぬ人となったが、鶴子夫人は韓国に残り、子どもたちの世話を続けた。夫人には「3000人の孤児の母」という言葉がつけられた。
尹氏は「母は木浦の方言で『3000人の孤児を育てたのは私ではなく、木浦市民』と言っていた」と語り、「人情に厚い木浦で暮らせて幸せだったとも話していた」と回想した。韓日国交正常化が実現して3年後の1968年、鶴子夫人が亡くなると木浦市民は市民葬で彼女を見送った。鶴子夫人が病床で日本語で「梅干し(うめぼし)が食べたい」と言ったことがNHKを通じて日本全土に放送され、それを見た小渕恵三元首相が感謝の電話をかけたという逸話も有名だ。
小渕氏は梅で有名な自身の故郷から梅の木20本を共生園に寄贈し、この木は韓日友好の象徴として、今も共生園の前庭で子どもたちをあたたかく見守っている。小渕氏は1998年、金大中(キム・デジュン)大統領とともに「金大中・小渕宣言(21世紀における新たな韓日パートナーシップ共同宣言)」を発表し、両国の交流の扉を開いた人物でもある。
母親の後を継いで共生園を運営していた尹氏が、日本で新たに取り組み始めたのは高齢者のための介護施設だった。次々と伝えられる在日同胞の孤独死の知らせを耳にし、亡くなる直前に母親が故郷の味・梅干しを恋しがっていたことを思い出したのだ。日本の地に残る在日同胞のための高齢者施設をつくろうと立ち上がった尹氏は、「キムチもあり、アリランもある『故郷の家』をつくれたのは日本の支援のおかげ」と語る。
1984年、朝日新聞に「韓日がいま平和な関係になったのだから、在日同胞も平和に暮らせるようにしよう。日本人の母・田内を木浦市民は市民葬で見送ってくれたではないか」という寄稿をしたことで、日本社会が動いた。1989年、大阪で最初に「故郷の家」が開所したとき、人々は彼に「奇跡の家を開いた」と称賛した。「当時、在日1世の高齢者たちは『ネズミの穴にも陽が差す日がある』(待っていれば良いことがある)と言って喜んでくれた」と尹氏は当時を振り返る。
「故郷の家」はその後、神戸・京都・東京にも開設され、日本人と在日同胞が共に過ごす友好の場として定着した。
尹氏は、韓国のために尽くした母親を心をひとつにして追悼してくれた木浦市民のことに再度言及し、「国籍や国家を超えて、人間が優先される社会がどれほど大切かを学んだ」と話した。そして「母と木浦で学んだことを一生の課題としている」とし「今も新たな夢を抱いている」と語った。その夢とは、韓日が共に取り組む平和と、子どもたちのための人材育成だ。尹氏は「地球村の未来の主人公である子どもたちを助けるために、両国が協力できるようにすることが新たな目標」と語った。
2025/11/04 13:49
https://japanese.joins.com/JArticle/340598