「準備した者にだけ機会が与えられる」…日本のノーベル賞受賞者の「受賞秘訣」

投稿者: | 2025年12月2日

日本で科学分野だけで27人目のノーベル賞受賞の知らせが続いた10月下旬。千葉県柏市にある東京大宇宙線研究所を訪れた。研究所の前には宇宙を構成する最も基本的な粒子と呼ばれるニュートリノに質量があるという事実を明らかにし2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章教授の記念碑とともに研究内容が紹介されていた。

梶田教授との対話は自然に今年日本が輩出した2人のノーベル賞受賞者から始まった。彼は、「ただ喜んでばかりはいられない」と話した。いぶかしがると彼は、「1990年代の研究成果で受賞したもので、2004年の国立大学法人化で大きな変化を経て基礎研究に必要な支援が過去より減った」と話した。また、「研究者が能力を発揮するためには自由に考え、やりたいことができるようにする余裕のあるシステムが必要だ。最近の日本は競争的に研究計画書を書いているが、こうしたものでは基礎科学分野で大きな業績を残すのは難しい」とした。

 埼玉県で生まれた彼はおとなしい性格で目立つ子どもではなかった。高校に進学してからは弓道にはまった。彼の目に物理学が入ってきたのは地球科学の先生に会ってからだ。京都大学理学部に挑戦したが、試験当日に高熱に苦しめられ思いを遂げられなかった。埼玉大学理学部に入学した後、副主将として弓道部の活動を継続した3年生の時。東京大学大学院への進学を決心したが弓道部が引っかかった。3年生で副主将を務めたら4年生で主将をしなければならないというルールがあったためだった。彼は「勉強が不足し主将を務めれば大学院に行けないと考えた。部員には申し訳ないが大学院を選んだ。それからは物理学がすべてとなった」と話した。

1981年に師である小柴昌俊教授の研究室に入り全く異なる生活を送ることになった。小柴教授は岐阜県の神岡鉱山の地下1000メートルにカミオカンデと呼ばれる観測施設を構想中だった。鉱山の寮で食べて寝て大型電球の形をした光電子増幅管を手作業で設置し、完工した後は実験とデータ分析の毎日を送った。今度は毎日繰り返される実験にはまったのだ。小柴教授が定年退職を1カ月後に控えた1987年2月、マゼラン銀河で超新星の爆発が起きた。研究チームは観測データを検索し超新星爆発で放出されたニュートリノを確認するのに成功した。小柴教授はこの研究で2002年にノーベル物理学賞を受賞した。梶田教授は「約400年ぶりとされる超新星爆発を観測できたのは幸運だが、小柴先生は『ニュートリノを観測できたのは準備した人だけ』と話した」と語った。

長期にわたる準備の時間の中で、発見の喜びが訪れたのは1997年夏のことだ。観測データを見ながら予想と違う部分を発見した。「最初は自分が間違っているかと思った。だがさまざまな研究をしながらもしかしてこれがニュートリノの質量と関連があるのではないかと考えた」と当時を回想した。彼は翌年6月、「幽霊粒子」と呼ばれてきたニュートリノに質量があるという研究結果を報告し世界を驚かせた。

彼は「私には小さな夢がある」と話した。「宇宙の大事件を目撃できる」重力波研究だ。星が爆発するような激しい天体活動が発生すれば周辺の時空間がゆがみ、真空中で光速で伝えられるエネルギーを意味する。神岡鉱山に164億円を投じて設置した3キロメートルに達する大型低温重力波望遠鏡「KAGRA」で彼は約400人の研究陣とともに研究中だ。梶田教授は「2010年に本格建設を始めて15年が過ぎたが、早く重力波を観測できる装置として完成させ宇宙に関する調査をしたい」と話した。

2025/12/02 08:54
https://japanese.joins.com/JArticle/341660

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