「『朝鮮の地』独島になぜ出入りしたのか」…江戸幕府の追及に侍が自決した記録見つかる

投稿者: | 2026年3月17日

江戸時代(1603~1868年)、鬱陵島(ウルルンド)・独島(トクド、日本名・竹島)への出入り禁止を破った自国の漁民を適切に執り締まれなかった責任を問われ、地方の侍(武士)たちが問責の末に自決した記録が日本の文書で確認された。これは当時、日本政府が独島など2つの島を朝鮮の領土と認識していたことを示す状況として注目される。

韓日文化研究所の金文吉(キム・ムンギル)所長は、島根県「竹島資料室」の保管庫にある「松井一族」の史料でこうした内容を確認したと17日、明らかにした。該当の文書は日本現地でも一般に公開されていない非公開資料として知られている。松井一族は島根県西部にある浜田地域の藩主(大名・領主)だった松平家に属する侍の家系だ。

 金所長が公開した「松井一族」の史料を見ると、該当文書の20ページ目に天保7年(1836年)10月29日、浜田の侍である松井と岡田が「竹島渡海禁止令」を破った漁民を管理できなかった問題で、江戸幕府から調査を受けたという記録が盛り込まれている。彼らは当時、浜田地域の行政責任を負っていた官僚だった。

文書によると、幕府は2度の書面調査を行った後、同年12月に彼らを江戸(現在の東京)へ呼び出し直接尋問した。調査の過程で松井ら侍たちが自決したと記録されている。当時の状況から見て、名誉を守るための切腹であった可能性が高い。彼らの死後も処罰は続き、幕府は松井の父と一家に永久謹慎処分を下した。

この事件の背景には幕府の出入り禁止措置があった。幕府は1696年、鬱陵島・独島が朝鮮の領土であるという理由で日本人の出入りを禁止する「竹島渡海禁止令」を出した。この禁止令は1693年に朝鮮の漁民である安龍福(アン・ヨンボク)らが日本に渡り、鬱陵島・独島問題を抗議した後に下された措置だ。当時、日本へ連行された安龍福と朴於屯(パク・アドゥン)は「独島は朝鮮の地だ」と主張して強く抗議し、これを機に両国間の領有権問題が本格的に提起された。その後、幕府は2つの島が朝鮮領土であることを認め、自国民の接近を厳格に制限したという。金所長は「ロ日戦争(1904~1905年)の時期までですら2つの島への出入りを禁止していたという資料が伝わっている」と伝えた。

当時、日本では鬱陵島を「竹島」、独島を「松島」と呼んでいた。日本から鬱陵島へ行くためには独島を経由しなければならなかったため、2つの島は一つの航路として認識されており、禁止令もやはり両方の島に適用された。

この措置以降、一部の日本漁民が禁止令を破って密かに出入りしたことで問題が繰り返され、これを管理すべき地方の侍に責任が回ってきたのだ。金所長は「この記録は当時、日本政府が鬱陵島・独島を朝鮮の領土として認識していたことを示す資料だ」と話した。続けて「日本はこうした記録を公開しないまま、毎年2月22日に『竹島の日』を開いて独島が日本領土だと主張している」とし、「自国の歴史記録さえ外面した日本の主張は説得力がない」と指摘した。

こうした日本政府の主張が続く中で、戸籍上の本籍地を独島として届け出た日本人も増加していることが分かった。読売新聞は先月23日付の記事で、独島を本籍として届け出た日本人が112人に上ると報じた。日本の戸籍法は、自国民が国内のどこにでも本籍地を移転できるよう規定している。日本政府は独島を自国の領土だと主張している。

2026/03/17 14:01
https://japanese.joins.com/JArticle/346274

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