先月24日、太平洋戦争被害者補償推進協議会と民族問題研究所が企画した「強制動員被害者運動記録写真展」の開幕式行事に出席した。韓日市民社会が日本を相手に戦後補償運動を始めたのは、韓国が「6月抗争(1987年)」を通じて民主化を勝ち取った直後の1990年初めからだった。昔の写真を眺めていると、この長い戦いが始まったのもすでに30年余りが過ぎたという事実を改めて気づかされた。
鋼のような意志で戦い続けて来た彼らも、やはり寄る年波には勝てなかった。被害者の多くが亡くなり、同日の行事に出席できたのは被害者の中では「若い世代」の不二越勤労挺身隊被害者のイ・ジャスンさん(92)、キム・ジョンジュさん(92)、キム・ゲスンさん(94)の3人のおばあさんだけだった。イ・チュンシクさん(100)とヤン・クムドクさん(95)は、外に出歩くのが難しく、子どもが代わりに出席した。年波に抗えないのは60~70代になった日本の活動家たちも同じだった。出席者たちは20~30年前の写真に写った若かりし頃の自分たちの姿を眺めながら、抱き合って泣き笑いした。
4日には日帝強制動員被害者支援財団が用意した「日帝強制動員研究と活動20年:報告と評価、そして見通し」というタイトルのシンポジウムが開かれた。この行事の雰囲気も大きく変わらなかった。二つの行事を見て、韓日の市民が汗と涙で続けてきた戦後補償運動が今や「最後の段階」に達したことを痛感せざるを得なかった。運動の成果をしっかり振り返り後世に伝えるのは、残された世代の役目だろう。
韓国人強制動員被害者たちが1990年から日本で提起した被害補償訴訟は計10件にのぼる。このうち日本製鉄など3件の訴訟では日本企業が被害者に「慰労金」を支給するなど和解したが、他の訴訟は被害者側が全て敗訴した。納得できなかった被害者たちが韓国の法廷に場所を移し、2018年10月に奇跡のような最高裁(大法院)判決を勝ち取ったことは周知の事実だ。
判決以後、韓日は骨身が削られるような壮絶な対立を繰り広げた。その後登場した尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は昨年3月、「第三者弁済案」を骨子とする型破りで屈辱的な譲歩案を示した。しかし、日本がこれに対してこれまで出した「呼応措置」といえば、日本経済団体連合会がソウル江南(カンナム)のマンション一戸分の値段にも満たない2億円を、賠償と関係のない交流事業に拠出すると発表しただけだ。日本の被告企業は3月末、被害者の子どもたちが本社を訪ねて面談を要請したにもかかわらず、応じなかった。このような現実を考えると、日本の「前向きな対応」を引き出すことは初めから不可能だったのではないかと結論に至らざるを得ない。だからといって、韓日市民が成し遂げたこの素晴らしい成果を、今のように光の当たらないところに放置しておくわけにはいかない。
そこで提案したい。政府の第三者弁済案を批判しようとすれば、きりがないだろうが、当然慰謝料を受け取るべき原告たちに現実的な選択肢を提供したことも事実だ。実際、2018年10~11月に判決が確定した15人の被害者のうち11人が金を受け取った。シム・ギュソン財団理事長によると、以後追加勝訴判決を受けた52人のうち90%以上がこの案を受け入れる意思を明らかにした。このお金が支給されるように、政府と1965年の韓日協定の恩恵を受けた企業が同意し、必要ならば社会的合意を通じて特別法の制定も考えなければならない。
第三者弁済を拒否する人たちは、被告の日本企業の資産に対する現金化を進めている。ヤン・クムドクさん事件(三菱重工業の商標権)は2022年5月から、イ・チュンシクさん事件(日本製鉄のP&R株式)は2023年1月から裁判所の最終判断を待っている。最高裁も頭を抱えているだろうが、もう決断を下さなければならない。日本が高く評価する尹大統領の在任中に現金化が行われてこそ、外交的衝撃を和らげることができる。政権が変わった後に決定が出たら、2018~2019年に匹敵する「第2の韓日戦」が勃発するかもしれない。
日本にも要請したい。現金化が終われば、韓日間の歴史問題は両国が解決策を見出さなければならない「外交懸案」ではなく、「記憶と教育の問題」になる。尹大統領は「屈辱外交」という非難を甘んじて受け入れ、多量の出血をともなう内部損傷まで甘受したのに、日本も鼻血1、2滴ぐらいは流す覚悟をしなければならない。それが嫌ならば、今からでも高齢の被害者の手を握って、たった一言でも「申し訳なかった」と言ってほしい。
2024/06/09 20:10
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/50263.html