2008年、フランス・カンヌ映画祭への出張で『グッド・バッド・ウィアード』を楽しく視聴した。しばらくして韓国で公開された映画をもう一度見に行くと、変わっているところがあった。カンヌでは「いい奴」パク・ドウォンは金だけを追う賞金稼ぎだったが、ソウルでは独立軍の資金を集める烈士になっていた。なぜ変えたのかと尋ねると、広報会社側は「よくご存じのくせに」と笑った。それが大衆の感性により合うという意味に聞こえた。
日帝強占期を時代背景とする映画やドラマでは、たいてい独立運動家と親日派が主要人物として登場する。キム・ドゥハンが鍾路(チョンノ)でやくざとして暮らしていたのも(ドラマ『野人時代』)、秘密クラブでチョ・ナンシルがダンサーとして活動するのも(映画『モダンボーイ』)、すべて独立運動のためだ。
もちろん、厳しい状況の中で続けられた独立運動に意味を見いだすことは大切だと思う。しかし、当時の韓国人の99%は親日派でも抗日闘士でもなかったはずだ。どちらでもない平凡な人々の人生は、そのまま埋もれてしまってもよいのだろうか。
東京に赴任したら、真っ先に会いたいと思っていた人がいた。杉山とみさん。1921年に全羅南道霊光(チョルラナムド・ヨングァン)で生まれ、1941年に大邱(テグ)達城(タルソン)小学校4年生の担任として教壇に立った。5年前の夏、朝日新聞は敗戦後に日本へ戻った後も数十年間にわたり、大邱で教えた教え子たちと手紙を交わしていた彼女を紹介したことがある。彼女は朝鮮人が日本に抱いていた反感を解放後になって初めて知った。教壇で朝鮮人の児童に皇民化教育を施したことへの自責の念に苦しんだが、戦後、教え子たちと再び交流する中で苦痛を少しずつ和らげていったという。彼女は1972年、札幌駐在韓国領事として勤務していた教え子のキム・ジョンソプさんと連絡がついた。2人は27年ぶりに再会し、「アリラン」を一緒に歌ったという。1976年には韓国を訪れた。金浦(キンポ)空港には教え子たちが出迎えに来ていた。彼女に会い、教え子たちとの思い出についてもっと聞いてみたかった。しかし、2023年に亡くなったという知らせを遅れて知った。
杉山さんと教え子たちの話は、日帝強占期の人生を親日と抗日の二分法だけで裁断するのは難しいことを示している。しかし、なにも彼らだけだっただろうか。二分法を強いられる社会では、平凡な人生が許される余地は狭くなる。「ほどほどに」現実に安住した人々も同じだ。だからこそ、大物親日派や独立運動の烈士だけでなく、「大したことのなかった」人々の話がもっと知られることを願う。歴史は善悪を分ける判決文である前に、その時代を生きた多数の人々の記録であるべきだからだ。
ユ・ソンウン/東京総局長
2026/08/24 11:16
https://japanese.joins.com/JArticle/353972