『暗殺者(たち)』を攻撃するヴァンダリズムの末裔たち【コラム】

投稿者: | 2026年10月10日

なぜよりによって映画『暗殺者(たち)』なのだろうか。朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の暗殺事件を扱った『ユゴ 大統領有故』(2005)や『KCIA 南山の部長たち』(2020)、 『大統領暗殺裁判 16日間の真実』(2024)が公開されたときにはこれといった反応を示さなかった人たちが、この映画の何にこれほどまで激怒しているのだろうか。

 少なくとも、前述の3作品に比べて史実の検証が不十分だとか、歪曲がひどいからというわけではないだろう。『暗殺者(たち)』が主要なモチーフとしている疑惑は、すべて2005年2~3月にかけて放送された「ソウル放送」(SBS)の「それが知りたい」や「文化放送」(MBC)の「今だから言える」などのドキュメンタリー番組を通じて、綿密に取材された事実だ。1974年の「文世光(ムン・セグァン)大統領狙撃事件捜査本部」の一員だったイ・ゴヌ(当時、ソウル市警鑑識係長)が口述した著書『大統領夫人の暗殺者』や、公聴会での証言、マスコミのインタビューが事実を裏付けている。

 『暗殺者(たち)』を非難する人たちが、そもそも映画の内容に関心がないことは、保守野党「国民の力」のチュ・ジヌ議員の6日の発言ですでに確認されている。「映画を観たか」というソ・ヨンギョ国会法制司法委員会委員長の質問に対し、チュ議員は「そのような不道徳な映画を観るということ自体が異常ではないか」と反論した。「不道徳な」映画だから観ていないという。ネイバーで「星評価テロ(悪意を持った第三者が組織的または一方的に最低評価を大量に投稿し、対象の評価や社会的信用をおとしめる行為)」を繰り広げている勢力も同様だ。彼らが怒りを抱くのは「事実」ではなく、「不道徳」という主観的な感情なのだ。だが、映画も観ずにどうやって不道徳だと確信できるというのか。

 映画は、客観的に確認された事実を劇化された形で配置したに過ぎない。文世光をそそのかした黒幕として描かれる「謎の男性」もまた、「今だから言える」が取材した事実に基づき、慎重に表現している。中央情報部(KCIA)による自作自演である可能性を推測できる余地を残してはいるが、映画のどこにも朴元大統領が文世光の黒幕だという内容はない。推測に推測を重ねてそう解釈するのであれば、それは完全に観客の自由だ。この程度の映画的な想像力さえ認めないなら、独裁時代の検閲と何ら変わりがない。

 スターバックスの「タンク(戦車)デー」イベントや「5・18北朝鮮軍介入説」などとこの映画を比較し、監督がもう少し慎重であるべきだったという批判にも同意しがたい。5・18の真実は、数十年にわたる度重なる真相究明や生存者の証言、裁判などを通じて明らかにされている。ましてや、国民を守るべき軍人たちが国民に銃を向けた、同族虐殺ではないか。一方、文世光の大統領暗殺未遂事件は、初歩的な疑問さえ解消できないずさんな捜査だった。KCIAと検察は、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が黒幕だと発表したが、日本側は文世光の単独犯行だと結論づけた。明らかになっていない歴史的事実を基礎にフィクションを織り交ぜたファクション映画の題材として、興味深い要素を幅広く備えている。大統領夫人が死亡した事件だからといって、タブー視すべき理由は全くない。

 「盧武鉉(ノ・ムヒョン)死亡の黒幕説」を映画化しても表現の自由なのかと反論する「国民の力」の議員たちの妄言には、資本の論理で答えるべきだ。作れるなら作ってみろと。最低限の蓋然性すらない無理な設定では、投資はおろかキャスティングさえ不可能だ。興行を目標とする商業映画は損益計算が優先される冷徹な産業であり、イデオロギーだけでは映画を作れないという常識さえ無視した、強引な主張に過ぎない。

 映画の内容に対する批判はいくらでもできる。だが、『暗殺者(たち)』に対するレッテル貼りや攻撃は、前代未聞なくらいに卑劣で破壊的だ。文化的ヴァンダリズム(破壊行為)と言っても過言でないほど野蛮だ。この局面を国民の力の党権派が主導しているという事実に注目すべきだ。チャン・ドンヒョク代表など「ユン・アゲイン」勢力と軌を一にする党権派の政治的な思惑以外には、その理由を見出しがたい。かつて「国母」として崇められていたユク・ヨンス女史(朴正煕元大統領の夫人)への郷愁を刺激し、支持者を結集させようとしているのではないか。全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官の秘書室長出身であるホ・ファピョン氏を国会に呼び寄せて5・18を侮辱したイ・ジンスク議員、尹錫悦(ユン・ソクヨル)の12・3内乱と全斗煥の12・12が内乱ではないと主張したキム・テギュ議員を筆頭に、露骨な「イデオロギー戦争」を繰り広げながら、同時に「文化戦争」へと進もうとする宣言とみられる。尹前大統領の内乱以降、国民の力の内部の極右的な動きは、ますます過激かつ無謀なものとなっている。

 政権が嫌う記事を書いたという理由でジャーナリストを連行して拷問し、映画フィルムを切り刻んでいた軍部独裁の末裔たちが、再び文化の首を絞めている。国民が血を流して勝ち取った表現の自由に支えられ、世界が注目する高水準の文化を築き上げたというのに、再び「あの頃のあの人」の時代に戻ろうというのか。

2026/10/08 19:11
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/57368.html

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