◇会社の不渡りと火災
だが、祖国を大切にしていた徐会長の人生は屈曲が続いた。74年経営難で日本の会社が倒産した。阪本さんは「当時、祖父と父親が韓国政府に助けを求めたが、何の助けも受けることができなかったと聞いた」と打ち明けた。韓国に戻って経営を継続したが、同年火災が発生した。76年ソウル三清洞(サムチョンドン)の自宅で徐会長が息を引き取り、徐会長の「紡績王」の神話は終わった。
徐会長が再びメディアの注目を浴びることになったのは2013年だ。徐会長が生前寄贈した大使館の敷地(約1万202メートル)に地上7階地下1階規模の庁舎と大使官邸が入りながらだ。当時の開館式には徐会長の次男であり阪本さんの父親である徐相旭(ソ・サンウク)さんら遺族が同席した。現在残った家族のうち唯一徐会長の日本の自宅で誕生し、ソウル三清洞の自宅でも6歳まで一緒に暮らした阪本さんはその後、祖父の痕跡を探し始めた。大使館には徐会長の勲章など資料が集まった記念室「同名室」があるが、阪本さんも大使官邸開館式の時に少しの間入ったことがあるだけで、その後は大使館内部ということで一般人の身分としては入る機会が特になかった。
◇「韓日若者の交流増えていくことを願う」
阪本さんは「器を割っても、叱るより『よくやった。私も器を買いたかったところだった。器を私たちが買ってこそ器の長寿も全うすることができる。それが人々にとって役立つ』というほど優しい祖父に会いたくて、祖父のことをもっと知りたかった」と話した。そんな気持ちを胸に、勇気を振り絞って大使館に直接連絡し、昨年尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日大使と会うことになり、約10年ぶりに祖父の記録が眠っている記念室を再び訪れることができたと語った。阪本さんは「笑い話だが、私だったら祖父のように寄付することはできただろうかと考える」としながら「貧しかった時期にお金の価値すらつけることができない寄付だったと思う」と言って胸を張った。
阪本さんの願いはただひとつ。生きている間に「祖父の物語が未来世代に忘れられないように資料を集めて残すこと」だという。「今回、東鳴斎の扁額がつき、訪問客が知る機会が増えて非常にありがたく、うれしい」という所感も添えた。12日に開かれた扁額式にはまだ高校生の姪(めい)も出席できるようにしてほしいという願いを伝えたのも阪本さんだった。一人でも多く、未来の責任を負う若者に、このような物語を知ってほしいというのが理由だった。阪本さんは「韓流ブームで日本と韓国が互いを見る目が変化している」とし「韓日の若者たちの交流機会が増えていくことを願っている」と話した。
2024/07/16 16:07
https://japanese.joins.com/JArticle/321208