【グローバルアイ】日本が本当に「コップの残り半分」を満たすには

投稿者: | 2024年8月2日

朝鮮人寮の場所を探し回って1時間。村の奥深くに立てられた案内版には拘置所も炊事場の場所もちゃんと表示されていたが、そのどこにも佐渡鉱山で働いた朝鮮人のための寮があったという表示は見られなかった。

先月26日に訪れた新潟県佐渡島の大工町。膝まで雑草が生い茂った廃虚の前で81歳のナガハマさんが近づいてきて手で示した。「ここが炊事場だ。朝鮮人が食べる飯をここで作って運んだとのことだ」。

 「戦争が終わっても戻らなかった朝鮮人がいたが、同じ班にも朝鮮出身の友達が7~8人はいた」。炊事場の場所から徒歩5分の拘置所跡に行ってみた。鍵のかかった拘置所前をぐるぐる回っていると、ひとりの住民が鍵を持って近づいてきた。

普段は訪ねてくる観覧客がいないので住民が自主的に遺跡を管理しているという。拘置所の中庭に入ると、韓国外交部の資料に掲載されていた朝鮮人寮跡の写真のその場面が目に入ってきた。配置されていた資料には1954~1972年に拘置所として使われた記録があったが、それよりも前にここに朝鮮人寮が存在したという事実はどこにもなかった。

この寮の存在が分かったのは1991年。富田たばこ店の主人が残した「年初配給帳簿」があるという事実を日本の市民団体が知りながらだ。相川第1・3・4寮に収容されていた朝鮮人がいつ入所してたばこを配給され始めたのか、名前・出身地・生年月日まで詳しく書かれていた。

市民団体はその時から強制動員朝鮮人の足跡を追跡して1519人の身元を把握した。「殉職産業人名簿」から坑内の作業中に死亡した朝鮮人の名前・年齢を発掘し、佐渡金山所が残した資料から朝鮮人がどのような業務に就き、どのような差別を受けていたのかを突き止めた。過酷な強制労働に苦しめられた朝鮮人をかわいそうに思った佐渡島の漁師数人が朝鮮人の脱出を助けた話もこのようにして世の中に知らされた。

佐渡金山の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産搭載翌日の7月28日。日本政府はその間知らん振りを通して否定してきた朝鮮人の存在をその時はじめて認めた。年初配給帳簿が世に出て30年余ぶりだ。だが、ここまでだ。「全体の歴史を知らせる」と約束したが、朝鮮人が強制的に連れて来られて働いていたという文面は遺跡のどこにも見られなかった。

早ければ9月佐渡島で日本政府が約束した朝鮮人追悼式が開かれる。日本側の約束が虚しい言葉だけで終わらないようにするためには、ありのまま過去を記憶するようにしなければならない。それが「コップの残り半分」を満たす真心のこもった行動の第一歩だ。

キム・ヒョンイェ/東京特派員

2024/08/02 15:38
https://japanese.joins.com/JArticle/321956

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