朝鮮と大韓帝国が亡国に向かっていく最後の30年ほど(1876~1910)の歴史を省みるとき、必然的に向き合うことになる質問は、日本がいつから朝鮮半島を飲み込むという「野心」を抱くようになったのかだ。これについては様々な見解があるだろうが、1876年2月の朝日修好条規(江華島条約)の後、日本の為政者たちが初めて感じるようになった感情は、「野心」というよりは、あの国のために大きな災いを被ることになりうるという「不安」だった。
その決定的な契機は1882年7月の壬午軍乱だった。明治時代の日本が生んだ天才の1人である参事院議官の井上毅(1844~1895)は、壬午軍乱直後の9月17日に『朝鮮政略』と題する意見案で「朝鮮ノ事ハ賂来東洋交際政略ノ一大問題トナリテ二三大国ノ間ニ或ハ此国ノ為ニ戦争ヲ開クベシ」と見通した。この不安は、2年後の甲申政変を通じて改めて確認される。朝鮮をこのまま放置していては、遠からず清やロシアと一戦を交えることになりかねなかった。そのような意味で朝鮮は、明治維新(1868)を成功させた近代日本が初めて向き合うことになった深刻な「安全保障上の難題」だった。
日本の為政者たちがこの問題で頭を痛めた根本的な理由は、軍事力が清やロシアに比べて脆弱だったためだった。専修大学の大谷正教授の著書『日清戦争』(2014)によると、日本は1873年に「国民徴兵令」を導入し、近代的な軍隊を組織し始めた。ところが、壬午軍乱が勃発した1882年における陸軍の動員可能兵力は、常備兵1万8600人と予備役2万7600人を加えた4万5000人で、海軍の規模は24隻(総排水量2万7000トン)にすぎなかった。反面、清は1880年に北洋大臣の李鴻章が率いていた淮軍(安徽省と合肥省の兵力)だけで10万人だった。1885年に就役することになるドイツ製の7000トン級戦艦の定遠と鎮遠を備えた北洋海軍の威容はやはりすごかった。日本はやむをえず、1882年10~12月ごろ、「東洋平和という大局的観点から、当面は(朝鮮に対して)消極政策を取る」ことを決める。「対決」ではなく「協力」という枠組みのなかで、朝鮮の自主独立を達成していくことを決意したのだ。
しかし、清と協力して朝鮮の自主独立を実現するということは、同時達成が不可能な矛盾した目標であった。この難題を克服するために井上は朝鮮政略で、清と日本が米国・英国・ドイツの3カ国と協力して朝鮮を「永久中立国」にするという妙案を出す。朝鮮が中立国になれば、清と日本との関係を保全しながらも、朝鮮を自主国にすることができるというわけだ。井上はこれを通じてロシアをけん制し、東洋の均勢(勢力均衡)を維持するなどして「東洋ノ政略ニ於テ稍安全ノ道ヲ得ル者トス」と考えた。
これは井上だけの考えではなかった。当時の朝鮮で外国語や国際法などに最も詳しかった兪吉濬(ユ・ギルジュン、1856~1914)も同じ考えだった。それは同じく1885年に出した『中立論』という文章で、朝鮮は「地理的にみるならば、アジアの咽喉に位置しており、欧州のベルギーと同じだ」として、朝鮮が「アジアの中立国になることは、まさにロシアを防ぐ大機であり、アジアの大国が互いに保全できる政略になりうる」と主張した。朝鮮と日本の2人の要人が極東の地政学的な要衝地に位置する朝鮮が独立してこそ、「勢力均衡」と「東洋平和」が維持されるとして、「朝鮮を中立国にしよう」という意見を提示したのだ。
この構想が実現されるためには、2つの大きい障害を越えなければならなかった。1つ目は朝鮮が中立国になれるほどの「実力」を備える必要があるということだった。朝鮮中立論が出てきた時期は、清と日本の妥協で朝鮮半島情勢が比較的安定した期間(1885~1894、天津条約から日清戦争までの10年)と重なる。朝鮮が自力で改革を試みることができた事実上「最後のチャンス」だった。高麗大学経済学部のイ・ホンチャン教授の研究によると、1900年代の日本の国内総生産(GDP)は朝鮮の5倍、財政規模は50倍だった。朝鮮の経済力は日本の5分の1の水準だが、財政規模は50分の1にすぎなかったという意味だ。国家が税金を適切に徴収して国家の発展に投じられるよう、貨幣・税制・財政・金融改革を急がなければならなかった。
もちろん、大規模な内政改革を推進した経験と能力がなかった朝鮮にとっては、容易ではない挑戦だっただろう。これよりさらに大きな問題は「政治的意志」だった。清と日本の協力体制が稼動して国際情勢が安定し、高宗と閔氏一族はついに望んだ平和を得ることになる。これらの者たちは、国に資金がないため、悪貨(当五銭)を鋳造し、破廉恥な官職売買を日常的に行いながらも、当人たちの「既得権」が保障される現実に安住した。自分の理解に反する改革は試みさえしなかった。これをみていた黄玹(ファン・ヒョン)は、著書『梧下記聞』に「様々に疲弊した政治はすべて10年以内に増えたものであり、(当時の実力者の)泳駿(閔泳駿(ミン・ヨンジュン)、後に閔泳徽(ミン・ヨンフィ)に改名、1852~1935)が国政を左右するに至り、さらに深刻になった」として、王室の贅沢、官職売買、閔氏一族の腐敗を一つひとつ告発した。
2つ目の障害は、宗主国を自認する清の反対だった。その後の歴史が示すように、清は「最後の属邦」である朝鮮を放棄するつもりはまったくなかった。これをよく知っていた「現実主義者」である兪吉濬は中立論で「一貫した方略は中国に依存しているにすぎない」として、「わが政府がこれを要請するよう切実に望む」と記した。しかし、朝鮮は要請しなかったし、中国も同様に受け入れる意思はなかった。最終的にこの時期の中立論は、単なる構想に終わってしまった。
朝鮮の中立国化が現実的でないのであれば、日本に残された選択肢は「軍備拡張」しかなかった。井上の『朝鮮政略』が出る1カ月前の1882年8月15日、山県有朋参議(参謀本部長兼任)は『陸海軍拡張に関する財政上申』という文書を閣議に提出した。山形は日本の戦力が清に劣っているとして、軍艦は48隻に、陸軍の常備兵力は4万人に増やす必要があると主張した。これにあわせて大山巌陸軍卿と川村純義海軍卿は、1883年から1890年までの8年間に推進する軍備拡張計画を提出した。その後日本は、酒税とタバコ税の増税を通じて軍事力を猛烈に増強していった。その結果、日清戦争が勃発する直前の海軍戦力(総排水量5万9100トン)は清の北洋艦隊(8万5000トン)にほぼ追いつき、陸軍も7個師団(1893年改正の戦時編成により、1師団の平時定員は9199人、戦時定員は1万8000人)を基軸とする強軍に生まれ変わった。
生まれ変わった日本の姿は、8年前に軍備拡張を主張した山形による1890年12月6日の施政方針演説で劇的に示された。山形はこの日、日本のその後の安全保障政策に重大な影響を与えることになる「利益線」という概念を提示する。「国家の独立と自衛の方法には2つある。1つ目は主権線を守ることで、2つ目は利益線を保護することだ。主権線は国家の領土を指し、利益線は主権線の安全と危機と密接な関係を持つ地域を指す。列国の間で国家の独立を維持するためには、主権線だけを防衛するのでは十分ではなく、必ず利益線を保護しなければならない」
山形はこの日、日本の利益線がどこなのかは言わなかったが、同年3月に出した『外交政略論』では「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と明確に示した。また、利益線を防衛するためには、時には「強力(軍事力)ヲ用ヰ」るしかなく、シベリア鉄道完成の暁には朝鮮は多事になるとして、清と日本がロシアに対抗するためには、朝鮮で同時に軍の撤収を決めた天津条約を廃棄する必要があると付け加えた。
山形は朝鮮独立という名分と清との協力の必要性を否定はしていないが、金玉均(キム・オッキュン)を支援した思想家の福沢諭吉の考えは違った。福沢は「時事新報」1885年3月16日付の紙面に掲載した「脱亜論」という無記名の社説で、近隣に支那(中国)と朝鮮があるという事実を日本の「不幸」と評し、「隣国の開明を待ってともにアジアを興す猶予はない」とする絶交宣言をする。周辺国に対するこのような蔑視が社会内に根をおろしたとすれば、朝鮮に異変が起きる場合、日本は「強力」で清を制圧した後、「朝鮮独立」という虚名を掲げて朝鮮半島を飲み込もうとする状態だった。日本がそのような考えを固めるころ、1894年初頭、全羅道古阜(コブ)で農民反乱が起きたという知らせが伝わってきた。日清戦争が始まろうとしていた。
キル・ユンヒョン|論説委員。大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『1945年、26日間の独立―韓国建国に隠された左右対立悲史』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。
2024/06/12 08:06
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