京都府で生まれた在日2世の17歳の少女は1960年4月、新潟から清津に向かう「帰還船」に一人で乗り込んだ。「北朝鮮は地上の楽園、無料で勉強できる」という朝鮮総連の教師らの言葉を信じ、帰還事業で北朝鮮に渡ることを決心した。引き留める父親の言葉は耳に入らなかった。日本で差別の中で生きるよりも、「平等で発展した」北朝鮮で堂々と生きたかった。
清津に到着した少女は、数千人の歓迎の人波に胸が熱くなった。船が港に近付くと、1年早く北朝鮮に来ていた先輩の姿が見えた。ところが先輩は、ふ頭から日本語で「日本へ戻れ」と絶叫していた。わけが分からなかった。船が着岸して歓迎の人波の様子が細かく見えてくると、少女は驚かずにはいられなかった。人々の様子は、物乞いの群れのようだったのだ。北朝鮮の実情を知った少女は、わずか2カ月後には自殺しようとしたが、そうすることもできなかった。1年後、北朝鮮で合流するという家族を押しとどめなければならなかった。先に自殺した人が「かます」で巻かれて捨てられているのを見て、死ぬことを思いとどまった。北朝鮮は、自殺した在日朝鮮人を反逆者として追及した。彼女は2003年に脱北した。地獄のような時代が忌まわしくて、北朝鮮名を捨てて「川崎栄子」という日本名で暮らしている。
日帝の敗亡後、日本の左派は北朝鮮を「理想社会」と称賛した。日本メディアは在日朝鮮人の帰還事業について好意的な記事を量産した。読売、朝日新聞の当時の1面記事は「帰還船、希望を載せて新潟から清津へ出発」だった。東京大学で学生運動をしていた小川晴久さん=現・東京大学名誉教授=も、当時、社会主義のため北朝鮮帰還を選んだ朝鮮人に感動したという。小川さんは、北朝鮮帰還事業の惨状を知った後、現在まで北朝鮮人権運動を行いながら贖罪を続けている。
1959年から84年にかけて、9万3340人が帰還船に乗った。この反人倫犯罪の共犯は、北朝鮮と日本だ。北朝鮮は金日成(キム・イルソン)体制を宣伝し、不足している労働力を補うために帰還事業が必要だった。在日朝鮮人を蔑視し、差別していた日本政府と社会にとって、朝鮮人の帰還事業は渡りに船だった。北朝鮮と日本の利害関係が一致したのだ。国交がなかった北朝鮮と日本の当局に代わって、双方の赤十字が協定を結んだ。地獄に向かう道は人道主義で舗装された。
韓国の過去史委員会が、在日朝鮮人帰還事業(北送事件)を「北朝鮮と朝鮮総連による人権じゅうりん」と公式に規定した。過去史委は「一次的な責任は北朝鮮と朝鮮総連にある」としつつも「当時、日本政府と日本赤十字社は実体を確認し得たが、意図的に事業を継続して人権侵害を容認した」と指摘した。金氏王朝の罪悪に口をつぐんでいる韓国の学生運動出身層が、過去史委の今回の発表について何と言うのか、気になる。
鄭佑相(チョン・ウサン)記者
2024/08/18 07:30
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