14歳で日本の軍需工場に動員され、死の恐怖を経験したキム・ソンジュさんが、日本の謝罪を受けられずに世を去った。享年95。
社団法人日帝強制動員市民の会は6日、「京畿道安養市(アニャンシ)にいらした三菱勤労挺身隊第1次訴訟の原告、キムさんが5日、老衰で死去した」と発表した。
1929年に全羅南道順天市(スンチョンシ)で生まれたキムさんは、日帝強占期の収奪で家が傾き、小学校を卒業後の1944年5月ごろ、「稼がせてもらえる。勉強もさせてもらえる」と日本人教師にだまされ、日本行きを決意した。キムさんの父親は1942年に慶尚南道鎮海(チンヘ)の飛行機工場に強制動員されており、翌年には母親も病気で亡くなっていた。
キムさんは日本の三菱重工名古屋航空機製作所に連れて行かれ、解放まで、朝8時から午後6時まで働かされた。働きはじめてから2カ月後、飛行機の胴体の鉄板を切る仕事をしていた時、左手人差し指の第一関節を切断する事故にあった。縫合手術は受けたものの、きちんとした治療は受けられず、障害が残った。
同年9月、叔父から送られてきた電報でキムさんは、6歳の弟が死んだことを知った。キムさんは弟の世話ができなかったという罪悪感にさいなまれ、家に帰してほしいと言ったが、工場の寮長に拒否された。
翌年には自宅からの手紙で、3歳年下の妹のキム・ジョンジュさん(92)も日本の不二越鋼材工業株式会社の富山工場で働いていることを知った。キム・ジョンジュさんは、「お姉さんに会わせてやる」と同じ日本人教師にそそのかされたのだった。
1944年12月7日に発生した東南海地震では建物が崩壊し、光州(クァンジュ)・全羅南道出身の6人の友人が死亡した。キムさんも避難する人々に踏まれて左足首が曲がり、ヒールの高い靴は生涯履けなかった。
解放後、帰国して家族と再会したが、苦しみは続いた。日本人は家に賃金を送ってやると言ったが、約束を守らなかった。18歳となった1947年に結婚したが、キムさんを「日本軍慰安婦」と誤解した夫はキムさんを殴って虐待した。キムさんは2021年1月に出した自叙伝『乾かない涙』で、「私は一生で一度として胸を張って大通りを歩けなかった。裏道だけを、裏道だけを歩んできた」と述べている。
キムさんは、やはり強制動員の被害生存者であるヤン・グムドクさんらと共に、賠償を求めて三菱重工を日本の裁判所に提訴したが、2008年11月に最高裁で敗訴した。日本政府は2009年、キムさんら原告に対し、ようやく厚生年金の脱退手当を支給したが、その額はで99円(韓国ウォンで900ウォン)、非難を浴びた。キムさんは2012年に韓国の裁判所に改めて提訴し、2018年11月に最高裁で勝訴した。
原告たちは三菱重工が賠償を拒否したことを受け、三菱重工の韓国内の資産に対する強制執行を断行し、キムさんも三菱重工の2件の特許権を差し押さえた。だが、2022年に成立した尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は「第三者弁済案」を打ち出し、原告たちは再び傷つけられた。第三者弁済案は、韓国企業が日帝強制動員被害者支援財団に寄付し、集まった寄付金で強制動員被害者に判決金(賠償金など)を支給するというもの。日本企業も寄付はできるが、被告の三菱重工や日本製鉄は寄付していない。
キムさんは2023年3月、国会で行われた強制動員政府解決策強行糾弾および日本の謝罪賠償要求緊急時局宣言に参加し、「日本人が私たちを引きずって行ったわけで、どこから謝罪を受けてどこに(賠償を)要求するのか。日本は良心があるなら言ってみろ」と最後の憤りを吐露している。
遺族には2男2女がいる。葬儀は安養斎場にて。出棺は7日午前7時。
2024/10/06 14:13
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