乙巳勒約から120年、乙巳年に振り返る「植民地近代化論」【寄稿】

投稿者: | 2025年2月28日

パク・チャンスン|漢陽大学史学科名誉教授

 2025年乙巳年は1905年の乙巳勒約から120年、1945年の植民地解放から80年になる年だ。1905年から1945年まで韓国は日帝の侵奪と強制占領、そして植民支配によって大きな被害を受けた。このため、この時期の歴史は韓国人にとって一種のトラウマとして残っている。このトラウマを克服するためには、まず当時の歴史的真実を正確に認識する必要がある。

 20世紀初めは世界史的に見て近代への移行期だったが、この重要な時期に韓国は日帝の支配を受けたことで、近代への移行がまともに行われず、社会と文化の発展が遅れざるを得なかった。にもかかわらず、日本と韓国の一部の研究者たちは、この時期に日本が韓国を近代化させたという「植民地近代化論」を主張する。当時、日本は韓国を植民地として支配するために近代的な行政や法制を一部持ち込み、また経済的侵略のために資本主義的な経済制度を持ち込んだ。ところが、それは植民地支配に必要な範囲内でのことであり、したがって彼らが韓国に移植した近代は歪曲された近代、植民地近代に過ぎなかった。

 植民地近代化論者たちは特に植民地時代の経済成長率が約3%でかなり高かったことを強調する。しかし、朝鮮総督府の統計の誤りを考えると、実際の成長率はせいぜい1%台に止まったとみる研究者もいる。たとえ若干の経済成長があったとしても、その果実を享受したのは朝鮮人ではなく主に朝鮮に住んでいた日本人たちだっただろう。そして重要なのは成長率ではなく、当時植民地朝鮮が置かれていた経済的現実だった。

 日帝強占期(日本による植民地時代)の「植民地朝鮮」は経済的側面から日本資本主義の食糧と原料の供給地、商品市場、資本の投資先、天然資源の略奪先の役割を担っていた。これを順に見てみよう。

 第一に、食糧の供給先としての朝鮮である。20世紀初め、毎年50万〜70万人の人口が増えていた日本は、食糧不足で大きな困難に直面していた。1910年代、日本は食糧不足を補うために外部から450万石のコメを輸入しなければならず、このうち朝鮮から約113万石、台湾から約83万石を運んできた。日本はより多くのコメを輸入するため、1920年に朝鮮で農地改良、品種改良などによる「朝鮮産米増殖計画」を始めた。1920年代中盤以後、(朝鮮半島で)米生産が増加し、日本へのコメ移出も増えた。1920年代後半に日本に運ばれたコメは約500万石、1930年代前半には約800万石に達し、朝鮮を食糧生産基地にする構想は成功した。植民地近代化論者たちは、日本へのコメ移出が増えたことが朝鮮経済に大きく役立ったかのように語る。ところが、コメの移出の増加で富を蓄積したのは日本人と朝鮮人の地主たちだった。彼らはさらに多くの米穀販売のため、貧しい農民から農地をむやみに買い入れ、自作農は減り小作農が大幅に増えた。また、地主らは小作料を以前より多く受け取り、小作農民らは日増しに困窮していった。

 第二に、原料の供給先としての朝鮮である。20世紀初頭の日本経済の主力産業は綿織物工業であり、輸出主力品目は生糸だった。したがって、綿織工業の生産を増やすためには原料となる綿花がさらに必要であり、また生糸の輸出を増やすためには蚕の繭(まゆ)がさらに必要だった。朝鮮総督府は、朝鮮南部で陸地面という綿花の栽培を事実上強制しており、また養蚕を増やすために桑の木も事実上強制的に購入させていた。朝鮮で生産された綿花と蚕の繭は、買い入れを独占した日本人会社によって日本資本の綿業会社と製糸会社に供給され、この過程で朝鮮の農民たちは十分な報酬を受け取れなかった。

 第三に、商品市場としての朝鮮である。 日本が韓国をあえて植民地にしたもう一つの理由は、韓国を日本商品の独占的市場にするためだった。1910年朝鮮の日本からの移入額と外国からの輸入額の比率は64:36だったが、1941年には90:10になるほど日本商品は朝鮮市場をほとんど独占した。日本から入ってきた商品の中では綿織物と日用品など消費製品が最も大きな比重を占め、その結果、朝鮮人の関連土着産業はほとんど崩壊した。

 第四に、資本の投資先としての朝鮮である。1920年会社令が廃止された以後、日本の資本は徐々に朝鮮に入り始め、1930年代後半に入って野口、三井、三菱など財閥企業も満州と中国本土への市場拡大のために朝鮮に積極的に進出し始めた。朝鮮人も会社と工場を建て始めたが、1938年当時、朝鮮に本店を置いた会社の納入資本額を民族別に比較してみると、朝鮮人側が11%、日本人側が89%で、朝鮮人の企業の資本は日本人の企業の資本と比較にならなかった。

 第五に、水産資源や山林資源、地下資源など天然資源の略奪先としての朝鮮である。日本は1890年代から韓国の南海岸に日本の漁師たちを移住させ始めた。1910年以後には日本の漁船と漁師たちが本格的に韓国の東海岸と南海岸に押し寄せ、スケトウダラやイワシ、カタクチイワシ、サワラなどをむやみに捕獲した。その結果、朝鮮の漁場は荒廃化していった。また、日帝は統監府時代から営林廠を設置し、鴨緑江(アムノッカン)と豆満江(トゥマンガン)沿岸、そして平安北道と咸鏡南道の深い山林の原始林を伐採し始めた。鴨緑江沿岸で伐木された木々はいかだで新義州(シンウィジュ)まで運ばれ日本人の木材商たちに渡され、この木材は主に朝鮮に移住した日本人たちの建築資材として使われた。また太平洋戦争以後には木炭の需要が多く増え、総督府は農村に伐木のノルマを決め、それを満たすことを強要した。また、日帝は1930年代以後、金増産のための「朝鮮産金奨励政策」を展開し、工業化のために鉄と石炭を本格採掘し始めた。日中戦争以後には軍需工業に必要な黒鉛や雲母、マグネサイト、タングステンなどをむやみに採掘して積んでいった。

 このように植民地朝鮮は日本資本主義に捕らえられ、食糧と原料の生産地、商品市場、資本投資先、天然資源略奪先の役割を担っていた。そして、このような「朝鮮経済の対日従属」はますます深まった。したがって植民地朝鮮の経済成長を強調する「植民地近代化論」は当時の現実とはかけ離れた、「奴隷意識から抜け出せないが故のたわごと」のようなものだ。

2025/02/27 19:24
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/52528.html

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