光復軍出身の首相を据えた李承晩…初代内閣「親日」はたった3人

投稿者: | 2025年7月4日

1945年8月15日光復(解放)の感激はそれほど長くは続かなかった。祖国独立に対する期待は高かったが、実際に韓国人が向き合うことになったのは冷酷な国際的現実だった。翌16日付の毎日新報には「米国・英国・中国・ソ連4大国の決定を受け入れる」という裕仁天皇の勅語と、最後の朝鮮総督を務めた阿部信行の「軽挙妄動するな」という物々しい警告文がトップ記事に掲載された。その根元は遠くカイロ宣言(1943)に盛り込まれていた朝鮮の信託統治を受け入れるという意味だった。

その後南韓(韓国)には米軍政(1945~48)が入り、北韓(北朝鮮)にはソ連の背後についた金日成(キム・イルソン)が権力を握った。米軍政期間、南韓では信託・反信託統治を巡り混乱が渦巻いた。

 信託統治を巡って、まるで「1つの瓶の中のサソリ」のように闘いが絶えなかった。当時米国から戻ってきた李承晩(イ・スンマン)は「託治」や「米ソ共同委員会(米ソ共委)の交渉」(=韓半島の暫定政府樹立に関する米ソ間協議)はかなわぬ夢であるという事実を誰よりもよく知っていた。李承晩は単独政府に向かう米国の思惑を看破しており、1946年6月3日全北・井邑(チョンブク・チョンウプ)で「南側だけでも臨時政府あるいは委員会のようなものを組織しよう」という意図的発言をした。

激動の時代にはすべての成人男性が政治家だった。1946年1~2月米ソ共委が韓国の統一方案を議論しようと交渉団体を募集した時、政党・社会団体は463個、会員数は7000万人だった。1946年時点の韓国の人口が1900万人(朝鮮日報1947.7.13)、政党・社会団体に加入できる成人人口が800万人、ここから交渉からほぼ排除された女性を除いて実際に政治に参加した人口が400万人程度だったことを考慮すると、すべての成人が18回政党社会団体に加入したことを意味する。これで米ソ共委も水泡と帰した。その遺産は李承晩にそのまま継承された。

米軍政期間、韓国は主権国家ではなかった。極度の混乱に見舞われた3年が過ぎ、1948年8月、軍政が政権を委譲した。政府樹立の核心は憲法制定に続いて閣僚を任命することだった。李承晩が上海臨時政府の初代国務総理・大統領に指名された時でさえ、彼に反対する勢力はなかった。しかし臨時政府が彼を弾劾(1925)し、臨時政府と李承晩は引き返すことのできない川を渡った。

◇政府樹立のための核心初代内閣構成は難航

李承晩は臨時政府に独立運動資金の支援を約束したが、彼の米国生活はそれができるほど裕福なものではなかった。武装闘争論者である朴容万(パク・ヨンマン)の挑戦、安昌浩(アン・チャンホ)の早すぎる死、エリート意識、激しい人見知りなど彼は表面とは違って孤独であり、名声に比べて人脈が厚い人物でもなかった。そのよう現象は実際に大韓民国初の大統領に就任して組閣をしようとした時に現実化した。

多くの悩みと紆余曲折の末、初めて組閣が行われた。長官は任命したものの、最も重要なことを後回しにしたため首相任命が難航した。李承晩は同じ西北出身であり監理教会(メソジスト)の牧師である国会議員〔鍾路(チョンノ)〕の李允栄(イ・ユンヨン)を好んで首相に任命しようとしたが反対の声が大きかった。彼が制憲国会開幕式である建国祝賀祈祷と「李村允栄」という創氏改名が非難された。李承晩は繰り返し承認を要請したが、国務総理は自分たちの役割と考えていた韓民党の反対(68%)で否決された。

李承晩は韓民党に不快感を表し、対称点にあった臨時政府光復軍参謀長出身の李範奭を首相に任命した。李範奭はすでに国防部長官に任命されていた。臨時政府主席だった金九(キム・グ)とこれ以上歩調を合わせることができなくなったうえに、李範奭を首相に任命するのは多くの考慮と悩みがあった。光復軍司令官を務めたチ・チョンチョンは無任所長官だったが、彼の部下である参謀長が首相に任命されることによって臨時政府勢力は混乱を極めた。それも李承晩にとっては織り込み済みのことだった。

金九は最初から考慮の対象ではなかったのだ。李承晩は金九を「畑でも耕していればよい人間」(韓国独立党中区(チュング)婦女部長『キム・ソン回顧録』)とみなしていた。張德秀(チャン・ドクス)の暗殺で2人の距離はさらに遠ざかった。かと言って中道派を考慮する立ち位置でもなかった。激動期の中道派はいつも灰色分子とみなされ、何者かの銃で死ぬかもしれなかった。実際に宋鎮禹(ソン・ジヌ)・呂運亨(ヨ・ウニョン)・張德秀ら中道派は悲劇的最期を迎え、最後まで生き残った金奎植(キム・ギュシク)も左右から牽制(けんせい)を受けて権力の周囲を虚しく回ることしかできなかった。古今東西いつもそうであるように、中道派の居場所がなかったということが解放政局における大きな悲劇だった。

初代内閣を巡り後代の歴史で論争が続いた。その核心は、果たして李承晩の初代内閣は親日的だったのかという「夢幻的」緋文字に対する検討だ。国務委員の議席は16議席だったが、李範奭が国務総理と国防部長官を兼任していたので実質的に国務委員の数は15人だった。このうち明らかに親日派に分類できる人物は日帝皇民化(日本天皇に対する忠誠要求)政策の先鋒だった臨戦報国団婦人隊の任永信(イム・ヨンシン)、臨戦報国団発起人の尹致暎(ユン・チヨン)、そして親日文学者の兪鎭午(ユ・ジンオ)ら3人だけだった。議席数でみると18.8%で、人員でみると20%だ。米軍政時期のジョン・リード・ホッジ(J・R・Hodge)司令官が愚痴をこぼしていたように、人を使おうとするとどうしても親日の欠陥のない人はほぼおらず、李承晩としては憂国志士だけで組閣することができなかった実情を考慮するなら18.8~20%は高い比率ではない。その時代に妻方3代、母方3代、父方3代9族に親日派がいない家庭は奴隷か火田民(農民)でなければ「ほぼ」いなかった。

◇米国式自由民主主義を夢見た李承晩

李承晩の初代政府を巡って避けられないもう一つの話題は建国節論争だ。建国は市民革命を経て封建王朝が共和政に国家体制を変更した場合や、そうでなければ「長い間」植民地時代を経験して2度の世界大戦を契機に独立して新生国家を創立した時に使う言葉だ。したがって1948年8月15日は国家創設日として建国という用語を使うことができる。

では1919年臨時政府宣言はどうなるのか。「解放はさせることはできても独立させることはできないr」という歴史学者アーノルド・J・トインビー(A・J・Toynbee、1945年2月米国・英国・ロシア首脳が集まったヤルタ会談当時の英国側調査員)の報告書(1945)や、「韓国には領土もなく、国民もおらず、主権もない」という米軍政庁顧問エルンスト・フレンケル(Ernst Fraenkel)の「米軍政設立報告書」(1948)のように、当時4大強国は韓国の「独立」を考慮したことがなかった。韓国現代史を勉強する愛国主義や心で韓国史を書いた歴史学者は解放と独立を混同したり同一だと考えた点で間違いだ。

したがって1919年4月11日の臨時政府樹立宣言は言葉どおり臨時政府の樹立にすぎない。主権もなく、国民もおらず、領土もない状況で国家を創設したと主張するのは学術的に無理がある。この問題は経済学者アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall)の言葉のように、温かい心で考えることではなく、冷静な頭で考える問題だ。愛国主義者などの熱血漢の心情を理解できないわけではないが、歴史には心で生きた人間が頭で生きた人間に勝る事例は珍しい。金九と李承晩の対立と破局が代表的だ。激動期の政治家たちは熱血漢民族主義者だったが、憂国主義は怒りと悲しみと悔恨の時代にそれなりに価値と役割があったが、今はそうではない。今は理性と論理と思慮の時代だ。

だとすれば李承晩の初代政府の遺産は何か。その時代、大韓民国建国の父は思想的に苦悩が多かった。李承晩の場合、基本的に儒教の王朝的思考を土台にしていて、うっかり「寡人」(国王が自身をへりくだって指す言葉)や「我が民」という用語を使いながらキリスト教的自愛と米国式資本主義を縫合しようとして彼自身もアイデンティティに混乱を見せる場合が多かった。それでもその時代の精神を概念化しようとするなら、李承晩の遺産は米国式自由民主主義と資本主義の価値の追求だった。彼の理想が最後まで続いたかどうかは脇に置き、少なくとも1948年の状況ではそうだった。

◇トリガー=今日の大韓民国を作った決定的契機を「トリガー」と名付けた。中央日報は創刊60周年を迎えて光復後にあった60個のトリガーを選び、その歴史と意味を連載中だ。

2025/07/04 14:05
https://japanese.joins.com/JArticle/335867

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