◇97年の通貨危機、その後の経済は
1997年11月14日午前、青瓦台(チョンワデ、大統領府)。姜慶植(カン・ギョンシク)経済副首相兼財政経済院長官が金泳三(キム・ヨンサム)大統領に報告した。李経植(イ・ギョンシク)韓国銀行総裁、金瑢泰(キム・ヨンテ)青瓦台秘書室長、金仁浩(キム・インホ)青瓦台経済首席秘書官が同席していた。姜副首相が切り出した。「もう国際通貨基金(IMF)に行くしかありません。許可してください」。
4日前に、洪在馨(ホン・ジェヒョン)元経済副首相との秘密通話で同じ話を聞いた金泳三大統領は淡々と話した。「わかった。そのまま推進しなさい」。
1週間後の21日、韓国はIMFの救済金融を受けると発表した。韓国経済の運命を変えた日だった。12月3日にはIMFのカムドシュ総裁がIMFから210億ドル、国際復興開発銀行(IBRD)から100億ドル、アジア開発銀行(ADB)から40億ドル、米国と日本をはじめとする7カ国が準備する200億ドルの総額550億ドルの支援計画を発表した。続けて金融構造調整と市場開放、企業支配構造改善などの内容を盛り込んだ了解覚書を締結した。
IMFの構造調整プログラムは韓国経済と金融・産業の枠組みを変えた。多くの金融投資会社と企業が倒産したが、いわゆるグローバルスタンダードを導入して生き残ったところははるかに堅固になった。企業負債比率は大きく下がり、銀行の健全性は高まり、会計と企業のガバナンスは透明になった。そのため、「通貨危機は韓国の経済・金融・産業の体質を改善する契機(トリガー)」だったとの認識が定着した。IMFの構造調整交渉団は通貨危機を「偽装された祝福」ともした。苦痛ではあるが実際には韓国経済に祝福になるという意味だった。本当にそうだっただろうか。
◇韓宝ゲートで打撃を受け大企業相次ぎ倒産
時計を少し前に戻してみよう。97年に入り大企業が相次いで倒産した。年初に韓宝(ハンボ)鉄鋼が不渡りを出し主債権銀行である第一銀行が事実上の支払い不能状態に陥った。韓宝グループが政官界や金融界にわいろをばらまき、第一銀行がまともな検討もなく巨額を貸し付けた「韓宝ゲート」の全貌も明らかになった。続けて三美(サンミ)、大農(テノン)、真露(ジンロ)グループが不渡りを出した。10兆ウォンほどの負債を抱えていた起亜(キア)自動車グループも倒産した。政経癒着と企業の借入過多、金融機関の過剰貸付、過度に多い短期外貨債務などの問題が韓宝鉄鋼をはじめとする一連の大企業不渡りにつながったのだ。これは金融機関の不良化、資本流出にともなう外貨準備高枯渇、そしてウォンの価値急落と韓国の信用下落を招いた。
さらに海外からも悪材料が押し寄せてきた。国際投機資本が東南アジア各国に投資した資金を引き上げてそれらの国の通貨価値が暴落した。7月にタイが通貨危機を迎え、続けてインドネシアなどに広がった。10月には香港が攻撃を受け株価指数が暴落した。韓国も株価とウォン相場が急落し、ドルに対する仮需要まで重なり外貨準備高が日ごとに減っていった。
韓国は対外債務を返せない国家不渡り事態を防ぐためあちこちで努力した。日本銀行が韓国から資金を回収していたため日本政府に引き出し自制の協調を求めたが明確な成果を上げられなかった。この渦中に日本は1000億ドルを出資してアジア通貨基金(AMF)を作るという案を提示した。東アジア通貨危機の沈静化などに活用する目的だった。だが米国と中国の反対で実現しなかった。急いで資金が必要だった韓国は11月以降日本に2回にわたり特使を送り支援を要請したが、日本政府は「IMFを通じてだけ流動性危機にさらされた国を助けることに合意した」という理由を挙げ拒否した。
AMFまで作って東アジア経済を安定させたいという日本が韓国の直接要請はなぜ断ったのか、米国と中国がなぜAMF設立に反対したのか、正確な理由はわからない。単に「国際金融市場を主導するための主要国間の牽制」などの推測が出ているだけだ。
その間に韓国の外貨はほとんど底をついた。IMFの救済金融を受けなくては不渡りを防ぐ方法はなくなった。救済金融を受ければIMFが要求する構造調整プログラムを施行しなければならなかったため最後まで回避しようとした道だが方法はなかった。
11月21日午後10時、韓国政府が「救済金融を受ける」と発表した後、IMFとの交渉が始まった。28日にはクリントン米大統領が金泳三大統領に電話し「早ければ来週末にも韓国が不渡りに直面しかねないと聞いた。信頼を回復させられるプログラムをIMFと合意して発表してほしい」と話した。一種の圧力だった。
12月3日にIMFと了解覚書を締結した。IMFは企業・金融・労働・公共の4大部門の市場経済的構造改革を要求した。韓国の危機が市場経済の原則を重視しない政府の過度な介入にあると判断したからだ。当時は大統領選挙運動が行われていた。IMFは金大中(キム・デジュン)、李会昌(イ・フェチャン)ら大統領候補者からも「当選したら構造調整プログラムを守る」という約束を取り付けた。
こうして韓国は経済主権を失い、IMFのやり方で構造調整が進められた。生き残った銀行と企業は堅固だった。97年末の500%を超えていた企業の平均負債比率は2000年以降200%台に落ちた。特に30大グループでは200%以下になった。当初「赤字幅が減るだろう」とIMFが予想した経常収支は大規模黒字に反転した。しかしこれは緊縮に向けた高金利政策と投資鈍化などの結果で、手放しで喜ぶことはできなかった。
経済成長率は落ちた。構造調整プログラムを履行し98年の韓国の成長率はマイナス4.9%に急落した。休戦後これまで韓国経済史でマイナス成長は80年、98年、2020年の3回あった。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領死去の衝撃と第2次オイルショックが重なった80年はマイナス1.5%で、コロナ禍で経済活動が大きく萎縮した2020年もマイナス0.7%にとどまった。
通貨危機当時の98年にはマイナス4.9%だったが翌年には11.6%の成長と大きく反騰した。しかしそこまでだった。韓国の経済成長率は通貨危機前の93~97年の5年間の年平均8%から通貨危機後の1998~2002年の5年間の年平均は5%台に落ちた。いろいろ理由がある。構造調整過程で多くの失業者と非正規職が生じた。大企業と中小企業、正規職と非正規職の格差が拡大し所得分配が悪化した。財務健全性を掲げたため投資は萎縮した。こうした点が中長期成長率を引き下げた。IMFによる構造改革は結局「祝福」だけではなかったということだ。
◇韓国経済二極化の泥沼の始まり
果敢な構造調整にもかかわらず、新たな成長動力を構築できず分配悪化と、大企業と中小企業の二極化という新たな不均衡が現れたという事実は、構造改革が市場規律と国際規範、そして金融機関の健全性と収益性を過度に強調したことを意味する。それでもIMFのせいだけにはできない。IMFでなければ国の不渡りを乗り越えることはできなかったからだ。より根本的な問題は政経癒着と過剰貸付のような問題を明確に知りながらも放置し、危機が近寄っているのにまともに感知できず結局構造改革の方向をIMFという第三者に任せるほかなかった点だ。それによって韓国経済の体質に合わせた構造改革を自ら推進できず、むやみにグローバルスタンダードという波に振り回されなければならなかった。
少子高齢化、過度な民間と国の負債、時々刻々と変わる外交・通商関係、所得分配悪化など韓国には未来の危機を呼ぶ要因が散在していた。しかし準備した者には危機がこないものだ。過ぎ去った通貨危機が韓国を「準備された者」にする決定的トリガーになることを期待してみる。
朴元岩(パク・ウォナム)/弘益(ホンイク)大学大名誉教授、元韓国金融学会会長
2025/07/14 11:34
https://japanese.joins.com/JArticle/336214