不平等を減らした農地改革、1960年代「超高速経済成長」の土台に

投稿者: | 2025年7月28日

◇韓国「トリガー60」⑫農地改革

テスラ(Tesla)のイーロン・マスクCEOは2023年12月31日、X(旧ツイッター)に韓半島(朝鮮半島)の夜景を写した衛星写真を投稿した。明るく光る韓国と、漆黒に沈む北朝鮮のコントラストが鮮明だった。そこには「狂ったアイデア:一国を資本主義と共産主義体制に半分ずつ分けて70年後の姿を確認してみよう」というコメントが添えられていた。

 

この写真1枚でマスク氏は南北の経済格差を直感的に示したが、資本主義と共産主義という二分法だけでその違いをすべて説明することはできない。資本主義を選択したにもかかわらず低成長に苦しんだ国も少なくないからだ。つまり、高成長には別の要因があるということだ。経済史を研究する学者たちが共通して挙げるのが「平等な土地分配」、すなわち大地主と多くの小作農による土地所有体制を自作農中心に変えた農地改革だ。

世界銀行所属の経済学者クラウス・デーニンガー氏が出した報告書『成長と貧困撲滅のための土地政策』(2003年)はこれを明快に示している。報告書によると、土地を平等に分配した国ほど1960~2000年にかけて急成長を遂げている。韓国、台湾、日本がその代表例だ。一方で、農地改革がうまく行かなかった中南米諸国は低成長の泥沼にはまった。光復(独立)直後、米軍政が始動し李承晩(イ・スンマン)政府が引き継いだ農地改革は、こうして韓国の経済発展の基礎となった。

解放当時、国民の約80%が農民で、そのうち70%以上が小作農だった。小作料として少ないときで収穫の50%から、多いときには70~80%を支払っていた彼らの生活は悲惨だった。この構造を変え始めた「トリガー」が、米軍政だった。実は米軍政よりも北朝鮮の方が先に、1946年3月5日に農地改革を実施している。日本人地主や親日派、大地主の土地を没収し、小作農などに無償で分配した。連合軍最高司令部を通じて日本を占領していた米国は同じ月、日本でも地主の土地を買い取り、小作農に有償で分配する農地改革計画を発表した。「このままでは共産主義に押されかねない」という判断からだった。

米軍政は韓国でも同様の土地改革を進めようとしたが、地主が多かった韓国民主党の反対に直面した。李承晩は1946年2月に発表した「過渡政府当面政策33項目」で農地改革への意志を表明したが、米軍政の土地改革推進に対しては明確な立場を示さなかった。左派は北朝鮮式の「無償没収・無償分配」を主張して反対した。

実行には至らず、約2年が経過した。共産主義を防ぐために農地改革が必要だと判断した米軍政は、まず元日本人地主の土地を小作農に有償で分配した。1948年3月のことだ。これは2カ月後に行われた制憲国会構成のための5・10総選挙に影響を与えた。当時、左派勢力は韓国だけの単独選挙に反対して候補を立てず、暴力で選挙を妨害した。選挙事務所をはじめ官公庁の襲撃は350件余りにのぼった。それでも投票率は95.9%に達した。農民たちは米軍政の農地改革を見て「右派政権も我々の味方になるかもしれない」と期待し、左派の妨害を突破して一票を行使した。

政府樹立後、李承晩は農地改革を推進した。その理由についてはさまざまな解釈が入り乱れている。「経済発展のために極端な不平等解消が必要だった」という考えを李承晩が持っていたという説もあれば、地主中心の韓国民主党と対立関係にあったため、政治的に農民の支持が必要だったという分析もある。北朝鮮が先に農地改革を進めた以上、韓国が体制を守るには同様の改革が不可欠だという認識も政界に広まっていた。

1949年6月、農地改革法案が用意された。「有償買上・有償分配・耕者有田」(有償で買い上げて有償で分配し、耕すものに田畑を与える)という原則に基づき、地主の土地保有を3ヘクタール(約9000坪)に制限し、それを超える分は政府が年間平均収穫額の1.5倍で買い上げ、農民が同額で購入できる内容だった。すぐに現金がなかった政府は、地主に「地価証券」で補償し、農民は収穫の30%を5年間現物納付すれば自分の土地になる仕組みだった。

地主出身の政治家たちは「私有財産の侵害」として激しく抵抗した。「共産主義に対抗するために農地改革が必要だ」と彼らもよく理解していたため、農地改革自体を潰すよりも、土地価格をさらに引き上げようという目的だった。土地を事前に子孫に譲渡したり、偽の契約書を作成したりして法網をかいくぐる地主もいた。

抵抗を押し切って1950年3月、農地改革が施行された。韓国戦争(朝鮮戦争)のさなかにも、韓国政府は1951年に施行規則を定め、この時から本格的な全国単位の農地改革が行われた。

北朝鮮は戦争中、「南朝鮮の占領地で農地改革をすれば農民が歓喜するだろう」と期待していたが、現実は違った。北朝鮮方式は「無償没収・無償分配」だったが、正確には土地を国有化し、個人には耕作権だけを与えるものだった。これは「所有と相続」という人間の基本的欲求を満たすものではなかった。結局、北朝鮮が望んでいたような韓国農民の全面的な支持は得られなかった。農地改革はすなわち、共産化を阻止する隠れた防波堤だったのだ。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領も「土地改革をしたことで、韓国戦争が起こっても国民が一つに団結し、体制を守ることができた(2004年11月チリ・サンティアゴでの僑民懇談会)」と語ったことがある。

農地改革の結果、解放直前には10%台だった自作農の割合は80%以上に急増した。農地改革は士農工商という伝統的な身分秩序も崩壊させた。土地を処分した大地主の一部は、いち早くその資金を産業に投資し、「工商」の地位が向上した。

しかし、地主の多くは農地処分の代価として受け取った地価証券を保有したまま戦争を迎えた。戦時中にそれを現金化しようとする地主が殺到し、地価証券の価値は大きく下落した。こうした地主たちは産業資本への転換の機会を失い、没落していった。

農地改革による自作農社会の形成は、経済成長と産業化の社会的土台となった。自作農たちはまず子女の教育に投資し、余裕があれば貯蓄を行った。この貯蓄は朴正熙(パク・チョンヒ)政権の産業化政策の資金的資本となり、教育は人的資本を育てた。結局、農地改革とその後の産業化政策の結合が、韓国経済発展の中核軸となったといえる。

李承晩の農地改革は、旧ソ連や北朝鮮の集団農場、また農地改革に失敗したアジア・中南米諸国とも明確に区別される。インドのガンディーも失敗し、フィリピンは地主による土地独占で国土開発に限界を抱えている。ブラジルのルーラ大統領も「ブラジルは韓国のように農地改革を行えなかったため、不均衡な成長を経験した」と告白している。

◇李承晩の農地改革パートナー、社会主義者の曺奉巖(チョ・ボンアム)

李承晩が農地改革を推進するために初代農林部長官に任命した人物は、地主中心の農業体制の解体を主張してきた竹山(チュクサン)・曺奉巖(1898~1959)だった。モスクワ大学に留学し、元朝鮮共産党員だった曺奉巖は、急進的革命ではなく漸進的な再分配を追求する社会民主主義者と評価されている。李承晩が農地改革に乗り出した際、地主が多い韓国民主党の反発は激しかった。このような状況も、農地改革に強い意志を持っていた曺奉巖を起用した背景とされる。

曺奉巖は1956年の大統領選挙で李承晩政権に挑戦し、進歩党候補として出馬して200万票(23.8%)を獲得した。しかし2年後、北朝鮮のスパイと接触し、北朝鮮の統一論を主張したという濡れ衣を着せられ、裁判で死刑が確定し、1959年7月30日に刑場の露と消えた。それから52年後の2011年1月、大法院(最高裁)全員合議体は彼に対する再審で無罪を言い渡した。曺奉巖の悲劇的な最期は、政争にまみれた韓国政治の暗黒史を物語っている。

経済学の父アダム・スミスの最初の著作は『道徳感情論』だった。利己心ばかりを強調していたとされるスミスも、社会秩序の基本原理として社会的共感を強調していた。もともと政治的立場の異なる李承晩と曺奉巖が農地改革を通じて社会的共感を得ようと手を組み、結局は袂を分かったというのは、ひとつのアイロニーではないだろうか。

キム・ドンホ/論説委員

2025/07/28 11:01
https://japanese.joins.com/JArticle/336808

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