半導体を省いて現在と未来を語ることができるだろうか。コンピュータやスマートフォンだけでなく、クラウドや人工知能(AI)など、いずれも半導体がなくては夢見ることもできない技術だ。このところ米国が自国の半導体事業に集中投資する背景だ。韓国は言うまでもない。輸出の20%が半導体だ。KOSPI200株価指数で半導体銘柄が占める時価総額の割合は35%に達する。韓国は特にメモリー分野で世界1位の座を20年以上にわたって守り世界的供給網の核心軸となった。最近の米国との関税交渉の際に「韓国の半導体供給パワーが交渉のテコとして作用した」という分析もある。韓国はどのようにして半導体強国になったのだろうか。
1979年10月26日、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領殺害という途轍もない事件が起きた日、彼らは夜を徹して報告書を作っていた。李秉喆(イ・ビョンチョル)サムスン会長の指示を受けてのことだった。李会長の質問は、「半導体にはどんな種類があるのか」というものだった。報告書を作成した人たちの1人が後にサムスン電子で最高経営責任者(CEO)を務めた李潤雨(イ・ユンウ)元副会長だった。
「アナログとデジタル半導体があり、メモリーと非メモリーがあり、また用途によりCPUやゲーム機用などがある。夜中に表をまとめていたが朝になり朴正熙大統領殺害の知らせが伝えられたのだ。そのころから李秉喆会長は半導体の勉強をたくさんしていた」
朴正熙政権に終止符が打たれたころに、現在の半導体産業のトリガーはこのように芽を出していた。サムスンが半導体と初めて縁を結んだのはこれよりも早い1975年のことだ。韓国の半導体業界の先駆者であるカン・ギドン博士が1年前に設立した韓国半導体(時計用半導体チップなど生産)を買収した。半導体産業の潜在力を予想した李健熙(イ・ゴンヒ)会長の考えだった。だが韓国半導体は赤字が続いており、この当時にはサムスンは大規模投資に乗り出さなかった。
当時未来の収益源を探していた李秉喆会長も半導体の勉強を始めた。だが最終決断を下すまでには3年以上かかった。李秉喆会長は『湖岩自伝』でこのように述懐した。
「米国と日本の専門家をはじめとして韓国国内の専門家らの意見をほとんどすべて聞いた。最高の資料を得ようと無限に努めた。長期・短期計画を立てて毎日のように検討に検討を繰り返した。83年2月についに断案(東京宣言)を下した」。
◇李健熙会長「技術行商人になった」
李秉喆会長は具体的に「DRAM」という事業方向を定めた。次は技術と人材を確保する番だった。韓国国内だけでなく米国の半導体・コンピュータ業界の専門家をスカウトした。李健熙会長が米国にいる韓国人頭脳に直接会って愛国心に訴えるたりもした。李会長は2000年のメディアインタビューで「私が技術行商人になって商売をした」と振り返った。
初めての挑戦は64KのDRAMだった。関係者らが64キロメートルの行軍をしながら覚悟を固めた。東京宣言を出した83年末に64KのDRAM製品ができ、翌年には256KのDRAMを発売した。米国と日本との技術格差をあっという間に縮めた。すると牽制が入ってきた。日本企業などが半導体を安く販売してサムスン電子の販路を防いだ。それでも李秉喆会長は投資を継続して生産ラインを増やした。李潤雨副会長は当時の状況をこのように伝えた。「第1・第2ラインもまともに稼働できていないのに第3ラインを作れといいました。いろいろ理由をつけて尻ごみしました。ところがある日突然、李秉喆会長から電話が来ました。『あした第3ラインの起工式をやれ』と」。
李秉喆会長が強行した第3ラインの起工式は87年8月に開かれた。積極的な投資がうまくいった。その直後に世界的なコンピュータブームが起こり、メモリー事業に火が付いた。半導体は88年だけで3200億ウォンの黒字を出した。これまでの累積赤字1600億ウォンの2倍だった。しかし李秉喆会長はこの姿を見ることなく87年に死去した。
後を継いだ李健熙会長は「タイミング論」を展開した。「半導体は投資決定が早くなければならない」とし、合意と承認で印鑑30個以上を押さなくてはならなかった過程をすべてなくして本人が直接決めた。会議に会議を繰り返して投資に慎重だった日本企業に追いついた背景だ。もちろん決定は容易なことではなかった。李健熙会長は社長団会議などで「最適な投資時期を決める時は血がにじむ苦痛がともなう」と何回も話した。
李会長は「3段階同時開発論」も出した。「1MのDRAMを開発する時にそれだけやらずに4M、16Mのチームを作れ。3段階先に行け。ずっとリードしなければならない」という注文だった。
技術開発に加速度がつき企業風土も変わった。リーダーが方向を決めれば超一流の人材が夜を徹して開発に没頭した。結局サムスン電子は92年に世界で初めて64MのDRAMを開発して世界1位に上がった。その後も「3段階同時開発」にともなう新製品開発が速やかに進められた。サムスン電子が20年以上にわたってメモリー分野1位を守った背景だ。持続的なリーダーの決断、超一流人材の献身するフォロワーシップが成し遂げた成果だった。
そうするうちに2016年に崔順実(チェ・スンシル)ゲートが明るみに出た。サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)副会長は国会に何度も呼ばれて拘束された。2016年はプロ棋士イ・セドルとAI「アルファ碁」が世紀の対局を広げてAI時代の本格開幕を告げた年だ。よりによってその時にサムスン電子は「リーダーの決断」に空白ができた。
◇「崔泰源会長は専門家の決定信じて推進」
AI時代のメモリー半導体の覇権はひとまずSKハイニックスが握った。超高速メモリーである広帯域メモリー(HBM)を2013年に世界で初めて開発した。始まりはグラフィック処理装置(GPU)メーカーである米AMDの提案だった。高性能ゲーム用GPUを作るのでとても速いメモリーを開発してほしいということだった。それが2010年だった。関連基盤技術を持っていたSKハイニックスは2015年に量産に成功した。だが当時、ゲーム用GPUはとても高く結局市場から消えた。それでもSKハイニックスはHBMを押し進めた。
SKハイニックスがHBMの開発を始めた2010年はSKグループが買収する前だ。ワークアウトから抜け出し新たなオーナーを探していた時だった。そのような状態で未来が不確実なHBM開発に勝負を懸けた。どのようにして可能だったのだろうか。HBM開発を率いて後にCEOとなった朴星昱(パク・ソンウク)元副会長は「ワークアウトを経て作られた独特の文化のため」と答えた。
――どんな文化なのか。
「困難を経験して協業する文化が強くなった。研究開発者らが集まってにぎやかに騒ぐように討論する。『DRAMの次はHBM』という考えが会社全般で定着した」。
――第2世代HBMはサムスン電子に遅れをとり第3世代から再び1位になった。
「遅れをとったという事実に、過去の厳しい時期を乗り越えてきた開発者の自尊心が湧き上がった。HBM自体が自ら選択した道でなかったか。結局やり遂げた」。
――SKが買収した後に崔泰源(チェ・テウォン)会長はどのようなリーダーシップを見せたか。
「投資を惜しまないと言った。HBMを押し進めるような方向設定は社内の専門家らを信じて進めていった」。
このようにSKハイニックスがHBMで1位に上がった原動力は研究開発者らの「集団知性リーダーシップ」と「集団自尊心」に要約される。
韓国は今後もメモリー半導体覇権を継続できるだろうか。容易ではない。個人リーダーであれ集団知性であれ、未来製品に対する決断を下すのがはるかに難しくなった。HBMを選択した10年ほど前よりも半導体技術はさらに複雑で種類も多くなったためだ。
科学技術部長官を務めたソウル大学の李宗昊(イ・ジョンホ)教授は、「もう個別の企業が可能性のある技術をすべて開発できる時代ではない」と話す。「企業と学校・研究所を連結し企業が必要とする技術を適時に確保する生態系を備えなければならない」と説明した。
それなら人材確保はどうだろうか。対外経済政策研究院のチョン・ヒョンゴン研究委員の診断はこうだ。「韓国の半導体企業にいた人材が米国や中国に流出している。処遇が比較的低くなったためだ。韓国企業はこの言葉を刻んでほしい。数日前に米クアルコム幹部と会った席で尋ねた。100兆ウォンあったら何をするかと。彼はしばらく考えると答えた。『人材を引っ張ってくるのに使う』と」。
2025/08/04 13:02
https://japanese.joins.com/JArticle/337128