◇「大韓民国トリガー60」⑰韓日国交正常化60年
韓国戦争(朝鮮戦争)真っ只中だった1951年10月20日、連合軍総司令部の仲裁により東京で韓日両政府の代表団が初めて向き合った。「そろそろ和解しましょう」。韓国側首席代表の梁裕燦(ヤン・ユチャン)が先に切り出した。「一体、何を和解しようというのですか」。日本側首席代表の井口貞夫の返答は冷笑的だった。
この日の光景は、その後14年間続く韓日会談の険しい道のりを予告するものだった。2年後の1953年10月、第3回韓日会談請求権委員会でも大きな論争が起き、会談は決裂した。当時、韓国側のホン・ジンギ代表は、「本来、韓国は愛国者の投獄と虐殺、基本的人権の剥奪、食糧の強制供出、労働力搾取などに対する補償を求める権利を有しているが、純粋な請求権だけを求める」と述べた。これに対して久保田貫一郎代表は、「それならば日本側も補償を求める権利がある。日本は36年間、禿げ山を緑豊かな山に変え、鉄道を敷設し、水力発電を増やすなど、多くの利益を韓国人にもたらした」と強弁した。
激昂した韓国代表団は会談場のテーブルを蹴って席を立ち、「久保田妄言」を撤回しない限り会談再開はないと反発した。その後4年半にわたり会談は決裂状態となった。会談は再開されたものの、紆余曲折の連続だった。
会談が容易ではなかった理由は、日帝36年の植民地支配をめぐる歴史認識の違いにあった。韓国は不法な植民地支配の清算という観点から韓日間の基本関係と請求権問題の解決に注力した。一方、合法的な条約に基づく統治とみなす日本は歴史清算に消極的で、平和線〔1952年、李承晩(イ・スマン)政権が設定した日本との海洋境界線〕の撤廃や在日同胞問題に関心を傾けた。
交渉過程で両国の立場の隔たりが大きかった背景は他にもある。まず1951年のサンフランシスコ講和条約に韓国は戦勝国として参加できず、東南アジア諸国と同様の賠償権を得られなかったことだ。また両国の国力格差も影響した。1960年代初頭、韓国は貧困国から抜け出せなかったが、日本は韓国戦争特需などにより大きな経済成長を遂げていた。韓日条約が締結された1965年当時、韓国の一人あたりの国内総生産(GDP)は108ドル、日本は900ドルで、経済格差は10倍に達していた。
厳しい対日強硬論を展開していた李承晩政権とは異なり、朴正熙(パク・チョンヒ)政権が発足すると雰囲気は一変した。米国ケネディ政府はアジアでの日本の積極的な役割を求め、また韓日経済協力の必要性を強調し、韓日会談の妥結なしには追加援助は難しいというメッセージも韓国に伝えた。さらにベトナムへの軍事介入を拡大していた状況下で、米国は韓日関係の改善を重視していた。
1961年11月、国家再建最高会議議長として訪米した朴正熙は、ケネディに韓日関係を改善すると伝えた。大統領就任後も朴正熙はケネディに書簡を送り、韓日関係の早期正常化を約束した。
◇資本・技術導入のため対日関係改善
政治的理由のほかにも、朴正熙は韓日関係を改善しなければ経済成長も不可能だと考えていた。1960年代初頭、一人あたりの国民所得が100ドルにも満たない状況で、経済開発と工業化の達成は急務だった。そのためには日本との関係改善による資本と技術の導入が必要だった。当時、日本は池田政権発足後、過去に対する謝罪や補償の意味を排除し、経済協力の名目で韓国に接近した。東南アジア諸国との戦後処理に適用した「経済協力方式」を韓国にも適用し、資本ではなく工業製品やサービスを提供しつつ経済進出の土台とした。朴正熙政権は開発資金誘致を最優先とした難しい外交戦を強いられた。
1965年6月22日、第7回会談で韓日両国は世界外交史でも例の少ない14年間の交渉(会議だけで1500回)を終え、「韓日基本条約」(韓日協定)を結んだ。翌日、朴正熙は国民に向けた特別談話を発表した。
「苛烈な国際社会の競争の中で、過去の感情だけに執着してはいられない。たとえ昨日の仇であっても、今日と明日のために必要であれば手を握るのが賢明な対処ではないか」
会談妥結により、日本は無償3億ドル、有償2億ドル、商業借款3億ドル、合計8億ドルを韓国に供与することにした。当時日本の外貨保有高が14億ドルだったことを考えれば、少なくない金額だった。実際、韓国政府は1960年代初頭から経済開発の核心である製鉄所建設資金の調達に努めていたが、韓半島(朝鮮半島)の戦争脅威に伴う国家リスクのため、援助はあっても借款の獲得には失敗を重ねていた。こうした状況で日本から資金が入ってきたのだ。
問題は資金の性格だった。朴正熙政権は植民地支配の実質的な補償であることを明確に規定しようとした。一方、日本は経済協力の一環という立場だった。この立場の違いは会談妥結後も両国の長期的な禍根として残った。
朴正熙政権はこの資金をどこに使ったのか。1976年経済企画院の『請求権白書』によれば、浦項(ポハン)製鉄の建設に最も多くの資金が投じられた。無償・有償資金1億1948万ドルと、鉱工業用に導入された原材料1億3282万ドルが浦項製鉄の建設と工場稼働に使われた。故・朴泰俊(パク・テジュン)元ポスコ名誉会長は「我々の先祖の血の代価で建てられた製鉄所だ」と語ったこともある。
◇韓日、垂直関係から水平的関係へ変化
社会間接資本の拡充にも充てられた。昭陽江(ソヤンガン)多目的ダムや京釜(キョンブ)高速道路の建設、上水道の拡張、漢江(ハンガン)鉄橋の復旧、嶺東(ヨンドン)火力発電所の建設、鉄道施設の改善などがこの時期に行われた。韓国はこの資金を経済発展の種銭として活用した。一方、東南アジアの一部諸国は対日賠償金を経済開発に結びつけられなかった。
その後、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を遂げ、両国の格差は次第に縮まっていった。昨年、韓国の一人あたりのGDPは3万6024ドルで日本(3万2476ドル)を上回った。経済規模は依然として日本が韓国の2倍を超えるが、かつて垂直的・非対称的だった韓日関係は60年を経て対等で水平的な関係へと進化した。
過去60年間、韓日両国は多くの紆余曲折を経験した。国交樹立初期は冷戦体制下で米国との安保同盟、政治・経済の結束が最優先だった。共産陣営に対抗する自由主義陣営の結束強化に重点が置かれていたため、過去の問題は水面下に沈んでいた。
脱冷戦が本格化した1980年代後半から、歴史・領土問題が表面に浮上した。これによって冷え込んでいた韓日関係は1998年、「過去を乗り越え未来へ」という金大中(キム・デジュン)ー小渕パートナーシップ宣言を通じて新たな協力モデルが提示された。
しかし両国関係はすぐに後退した。2010年代は米中対立の加速とともに、慰安婦、強制徴用、日本の輸出規制、ノー・ジャパン運動など、対立が拡大した「失われた10年」だった。GSOMIA(韓日軍事情報包括保護協定)停止、東海(トンへ、日本名・日本海)上での哨戒機事件など安全保障の対立まで浮上した。その後、2023年以降、ロシア・ウクライナ戦争、米中覇権競争、グローバル経済の分断化、北朝鮮の核ミサイル脅威など複合的危機状況が登場し、両国は協力の必要性を改めて認識した。シャトル外交再開、輸出規制解除、GSOMIA正常化、年間1100万人を超える人的往来など、関係改善が進んだ。
政治・外交的変化に比べ、相手国への肯定と信頼、共感の形成は依然として不十分だ。例えば2018年、強制動員被害者が日本企業を相手取った損害賠償訴訟で勝訴すると、日本政府は韓日協定で請求権はすべて解決済みと主張した。一方、韓国大法院(最高裁に相当)は被害者の個人請求権は消滅していないとの判決を下した。こうした法的解釈の違いだけでなく、慰安婦・強制動員・歴史教科書・靖国神社問題など対立要素は依然として存在する。
韓日関係の持続的発展のためには3つのことが重要だ。第一に、国民的支持の確保と全分野での実質的協力。第二に、過去史問題の戦略的管理と学界・市民社会の地道な対話努力。第三に、変化する国際情勢と両国の戦略的利益共有に基づく未来志向的パートナーシップの推進。
韓日国交正常化60周年を迎えた今年、金大中ー小渕宣言を継承する「韓日パートナーシップ宣言2.0」構築に向けた議論を始めなければならない。
李元徳(イ・ウォンドク)/国民大学日本学科教授
2025/08/08 10:37
https://japanese.joins.com/JArticle/337350