大韓民国「トリガー60」㉕ ベトナム派兵(1964~73)
韓国戦争(韓国戦争)直後である1954年、李承晩(イ・スンマン)大統領は共産化の動きがあったインドシナに対する米国の安全保障戦略に高度なアンテナを立てていた。そこでの内戦型理念紛争が韓国戦争のような国際戦の様相に広がりかねないからだった。李承晩は世界大戦敗戦国である日本が韓国戦争特需を機会に国家再建の基礎を固めたという事実をよくわかっていた。
当時ベトナムを支配したフランスはディエンビエンフーの戦いに敗れて厳しい状況に置かれていた。米国は直接参戦を深刻に考慮した。米国家安全保障会議(NSC)の報告書によると、現地の状況を注視していた李承晩は1954年1月末に韓国軍1個師団をベトナムに投じてフランス軍を支援する用意があると米国に強く示唆した。しかし韓国戦争休戦交渉で歪んだホワイトハウスと李承晩の間の信頼は崩れている状態だった。
李承晩の派兵提案に対する米国の反応は冷たかった。米大統領アイゼンハワーと国務長官ダレスは李承晩を信じることができなかった。「東洋の交渉人」「言い訳の魔術師」「恐喝者」程度と疑った。だが国際政治学を専攻した李承晩は「戦争の国際化」を確信した。彼はベトナム紛争を注視し続けた。東アジアの国で初めて米国と協議せず独自に1955年に南ベトナム政府を承認し軍事交流を続けた。
5・16軍事政変を起こした朴正熙(パク・チョンヒ)大統領もベトナムに対する関心を放さなかった。彼は国家再建最高会議議長時代の61年11月に米国を訪問し、ケネディ大統領にベトナム派兵の意志を強く表明した。ナンバー2の金鍾泌(キム・ジョンピル)は62年2月にベトナムを現地調査した後、米国が韓国と共有している情報より現地の戦況ははるかに北ベトナムに有利に展開していることを朴正熙に報告した。大統領特使であり米国巡回大使のアベレル・ハリマンが訪韓した時の首相宋堯讃(ソン・ヨチャン)も「ベトナムの共産化を防ぐためにいつでも韓国派兵が可能だ」という立場を繰り返しホワイトハウスに伝えた。米国は韓国と南ベトナム政府の独自の軍事交流の可能性を懸念する。駐韓米国大使サミュエル・バーガーは青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)に向け「両国間のすべての軍事交流は米政府と在ベトナム米国軍事顧問団の許諾の下に行わなくてはならない」と警告するほどだった。
◇派兵韓国軍6000人近く戦死
なぜ李承晩と朴正熙は米国もためらうベトナム派兵に積極的だったのか。60年代初めまで韓国は米国の同盟国のうち最も高い水準の軍事・経済援助を受けた国だ。しかし援助は一種の麻薬と同じだった。「援助依存型経済」の限界だった。一時しのぎで政府財政は維持したが、産業構造転換は想像できなかった。政治・社会不安の核心である失業率は60年代初めに都市圏基準15%に達した。米国の友好的な態度もすぐ失望に変わった。李承晩と張勉(チャン・ミョン)政権に対する期待を引っ込めた米国の軍事・経済無償援助は急激に減っていた。
61年3月11日、駐韓米大使がCIA議長を通じてケネディ大統領に電文を送った。「張勉政府は韓国を発展させるいかなる能力も保有しておらず、政治的・経済的危機の到来が明確と予測される。(中略)公務員の汚職と腐敗、詐欺行為が横行する社会に対する米国の援助はその意味を喪失することになるだろう」。
こうした状況で、米国は権力を握った朴正熙を新しい相手として会うようになった。5・16直後にホワイトハウスが派遣した韓国調査団は、6月5日付の機密帰国報告書で「機会主義的クーデターで政権を奪取。(中略)彼らは国を完ぺきに掌握している。米国は彼らが建設的な目標を設定できるよう緊密に協力すべき」とケネディに報告した。
当時の米国は米軍を含んだ多国籍軍キャンペーンに対する自信があふれていた。朴正熙政権の自発的な派兵の意志に大きな関心はなかった。だが米国の多国籍軍キャンペーンに対する同盟の反応は冷淡だった。
韓国軍派兵に意外な障害もあった。歴史的にベトナム国民の間に蓄積された「反中感情」だった。ベトナムの「天敵」である中国人と韓国人の似た容貌が問題だった。朴正熙は運が良かった。米国が焦っていた韓日外交正常化を遅らせ韓国軍派兵の価値を増大させる戦略を駆使した。特に反戦主義者であるケネディ暗殺後に権力を継承したジョンソン大統領は戦争直接介入を通じた解決を主張しており、派兵交渉の主導権は弱小同盟である韓国に移る状況だった。
1964年に非戦闘兵から始め65年以降10年間にわたり派兵した韓国軍は30万人に達する。そのうち6000人近い軍人が戦死した。北朝鮮の南侵の恐れがある状況でどうして韓国最精鋭戦闘兵力の派兵が可能だったのだろうか。また、米国はなぜこれを最終的に許諾したのだろうか。米NSC所属の韓国調査チームが61年6月5日にケネディに報告した秘密報告書でその理由を推察できる。
「韓国正規兵力を縮小するためには米国が『敵から脅威を受けている』韓国の安全保障を絶対度外視しないという証票が必要だ。この計画の実行はすでに非武装地帯に配備した戦略核の増加を前提としなければならない」。
1950年代後半、戦略核の戦争抑止効果を考慮した米国は韓国の安全保障状況を楽観的に見ていた。ベトナム戦争が終結に向かった1970年、ジェームズ・フルブライト上院議員は米国の対韓政策を議論したサイミントン公聴会で、「韓国はベトナム戦争に自由民主主義の守護よりは経済的利益のために参加した」と強く主張した。戦略核配備で対北朝鮮軍事抑止力が確保された状況で1960年代に朴正熙政権が推進した対外戦略は国家経済再建と成長が最優先だった。
◇大企業中心の経済構造固まる
朴正熙政権は派兵過程で、高度で精密かつ体系的な交渉を行った。米国の補償が消極的な時は最前線からの韓国軍撤収説を意図的に広めた。また、失業率を下げるためにベトナム戦参戦後に転役した戦闘兵を傭兵として再投入する交渉も試みた。
朴正熙政権は交渉テーブルで主導権を握り続けた。その時勝ち取った経済的見返りは経済開発初期段階にあった韓国経済の産業化過程全般に決定的影響を及ぼした。派兵関連公共借款で5億2250万ドルを確保し、これを国内のインフラに集中投資した。派兵関連商業借款も2億4000万ドル規模だった。1970年代に韓国の輸出産業の中心となった重化学工業部門の設備投資に活用された。京釜(キョンブ)高速道路建設にも使われ、米国から土木技術支援も受けた。またPL480無償援助プログラム(米国内の過剰生産農産物を支援)により韓国に提供された綿花は1億7000万ドルに達した。これは繊維類輸出を通じ韓国に経済成長の基盤を提供した。
いわゆる「ベトナム財閥」の成長も注視すべき部分だ。小規模建設企業だった現代(ヒョンデ)は派兵交渉過程で米国から港湾土木・道路建設技術を無償で伝授され中東進出の技術基盤を築いた。いまは解体された大宇(デウ)は繊維輸出事業から始まり建設、重工業、金融分野などに事業領域を拡張していった。海運業基盤の韓進(ハンジン)が韓国初の民間航空の認可を得て大企業に成長することになったのもベトナム交渉の結果だ。
内外の経済問題に及ぼした否定的な影響も無視することはできない。日本から原材料と半加工品を輸入して単純再加工しベトナムに輸出する「ベトナム三角貿易」が活発になるほど韓国経済の日本依存度は高まり、対日貿易赤字も大きくなった。「ベトナム財閥」の特恵性多角化は後に大型財閥中心の韓国経済の構造を固定化した。しかし貿易と非貿易収入、そして派兵軍人の送金で稼いだ100億ドルの外貨と貿易市場開拓、産業技術確保は現在の韓国を可能にしたトリガーだったことは明らかだ。朴正熙政権当時に秘書室長と外務部長官を務めた李東元(イ・ドンウォン)氏は過去筆者にこのように話した。
「1960年代初期に米国の後援国の座が薄れていると感じた実用主義的官僚らはベトナム戦争が国家経済を回復させる唯一の輸出市場だけでなく失業率を減らせる労働輸出市場である点に大きな共感を持っていた。また、ベトナム派兵は米国のドルを直接調達できる道を開く唯一の経路という点でも意見が一致した」
チェ・ドンジュ/淑明(スンミョン)女子大学教授、グローバルガバナンス研究所所長
2025/08/28 11:01
https://japanese.joins.com/JArticle/338100