孤独死は個人の悲劇ではなく制度の失敗だ【寄稿】

投稿者: | 2025年10月16日

 先日、ある70代の男性が死亡から数日後に発見された。家族はおらず、隣人ともほとんど交流がなかった。私たちはこのような死を「孤独死」と呼ぶが、この言葉の中には社会の不在が隠れている。孤独死は個人の選択や悲劇ではなく、社会と制度が本来の役割を果たせていないことの結果だ。

 家族構造の解体、経済的不安、関係の断絶が複合的に絡み合い、誰もが潜在的孤独死の危険群となりうる時代になっているにもかかわらず、現行制度は依然として「事後処理」中心のものにとどまっている。孤独死を「防止」するというより「管理」しているのが現実だ。

 孤独死を防ぐ制度的アプローチは、単なる福祉予算の増額であってはならない。今必要なのは早期発見と連携システムだ。一人暮らしの高齢者や中高年の独居世帯を対象にした「危機信号感知システム」を、より精巧に稼働させなければならない。例えば水道や電気の使用量が一定期間に急激に減っていれば自動的に行政と地域センターに連絡が行くようにする。あるいは宅配や医療訪問の記録を活用した生活信号データを基盤とする対応システムが、現実的な代案となりうる。

 何よりも、制度の中心には「関係の回復」をすえるべきだ。行政がいくらきめ細やかに対応しても、人の温もりに代わることはできない。日本の一部の地方自治体では、孤独死を防止するために「生活支援士」や「地域見守り」を置き、定期的に扉をノックして安否を尋ねる事業を展開している。韓国でもいくつかの自治体が「安否を尋ねる隣人事業」を試みているが、まだ試験水準にとどまっている。この制度を国家的ケアインフラへと拡大する必要がある。

 孤独死は特定の個人の問題にとどまらない。人の死が静かに過ぎ去る社会は結局のところ、誰もが不安を抱える。真の福祉国家を目指すのなら、人の死さえ社会が共同で責任を持つ構造を作らなければならない。制度の役割は単なる支援ではなく、関心が制度へとつながるように設計することだ。

 孤独死を減らす道は行政の行動からはじまるが、最後は社会の心で完成される。互いの安否を尋ねる文化、関係をつなぐ制度が根付く時、私たちは初めて「共に老いていく社会」を作ることができるだろう。誰かの死が静かな部屋の中で孤独に終わることのないよう、制度は人間の尊厳を守る最後のとりでとならなければならない。

2025/10/15 17:26
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/54475.html

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