「私より給料多い」 朴正熙大統領が迎えた科学者18人、K技術の始まり(1)

投稿者: | 2025年11月4日

1962年1月、経済企画院が当時の朴正熙(パク・ジョンヒ)国家再建最高会議議長に「第1次経済開発5カ年計画」を報告した。朴正熙は予想外の質問をした。「現在の我々の技術水準と技術者で目標を達成できるのか」。

当時、韓国は研究開発の不毛地と変わらなかった。李承晩(イ・スンマン)大統領が59年に設立した原子力研究所があったが、特殊分野の研究に限られていた。残りの研究所は政府が自ら「ほとんど生産品の試験にすぎず、研究実験分野には着手できないのが実情」(『1962科学技術白書』、経済企画院発刊)と自評するほどだった。

 朴正熙は62年11月の国家再建最高会議でも突発的な発言をした。「経済と科学技術振興に関する大統領諮問機構の経済科学審議会議を設置しよう」。科学技術関連の政府部処を設置して総合研究所を建てるべきという提案が出てきたのが、この経済科学審議会議だった。

朴正熙は科学技術に格別の関心を向けた。「科学立国、技術自立」は彼の信条の一つだった。73年の年頭記者会見では「全国民の科学化」を掲げた。朴正熙がいかなる理由で科学技術に関心を向けたのかは定かでない。日本を見て、または戦争を経験しながら、早くから科学技術の重要性を胸に刻んだという推測があるだけだ。

絶対権力を握った国家指導者の関心から、国内研究開発の土台が一つ二つと用意された。経済開発計画の報告を受けて技術力と技術者に対する心配を表した直後、経済企画院は「技術振興5カ年計画」を立てた。技術者の確保、外国技術導入促進案などが盛り込まれた。

朴正熙は頻繁に科学技術者に会って耳を傾けた。初代韓国科学技術研究院(KIST)院長と第2代科学技術処長官を務めた崔亨燮(チェ・ヒョンソプ)博士の回顧録『明かりが消えない研究所』にはこのような内容がある。「64年末、青瓦台(チョンワデ、大統領府)のハン・ジュンソク経済担当秘書官が訪ねてきた。大統領に科学技術について説明してほしいという要請だった。私は科学技術の重要性のほか、企業が必要な技術を選定して導入、消化、適用する媒介体(総合研究所)が必要だと説明した」。

◆大統領より給料多い科学者が多数

崔博士だけでなく複数の科学者が産業技術総合研究所が必要だと力説した。しかし巨額の資金が必要な研究所の設立は容易でなかった。こうした状況の中でチャンスが訪れた。ベトナム派兵に対する見返りなどを議論するためリンドン・ジョンソン米大統領が65年5月、朴正熙を国賓として招待した。朴正熙は工業発展に寄与できる総合研究機関の設立を支援してほしいと伝えた。翌年2月、韓国と米国が1000万ドルずつ投資してKISTが創設された。設立資金2000万ドルは現在の価値で約3000億ウォン(約320億円)にのぼる。

設立資金で研究装備は購入できたが、優秀な研究員を確保するのは別の問題だった。当時は頭脳の流出が深刻だった。人材は良い研究環境と処遇を求めて先進国、特に米国に向かった。崔院長は在外韓国人科学技術者に会って説得した。「ノーベル賞を受賞したいなら残ればよい。しかし祖国のために仕事をしたいのなら帰国してほしい」。 KIST設立初期に在外科学者18人が韓国を選択した。これを聞いたヒューバート・ハンフリー米副大統領はこのように語った。「世界最初の逆頭脳流出(reverse brain drain)だ」。

帰国した科学者には破格の待遇をした。年俸は国立大教授の3倍、当時なかった医療保険を米国と契約して結んだ。朴正熙が科学者の給料表を見ながら「私より給料が多い人が多数いる」と語ったというエピソードは有名だ。

KISTはカラーテレビ受像機(71年)、国内初のマイクロコンピューター「世宗(セジョン)1号」(75年)、肺炎ワクチン(79年)、光ファイバー技術(84年)、人工腎臓(93年)などを開発し、経済発展の礎石と築いた。60年代末~70年代初期に出てきた電子・機械・自動車工業育成案もKISTの作品だ。103万トンの鉄鋼生産設備と工場配置、原料需給対策など浦項(ポハン)総合製鉄の姿を具体的に描いたのもKISTだった。88年ソウルオリンピック(五輪)当時はKIST傘下のドーピングコントロールセンターが陸上男子100メートルのカナダ代表ベン・ジョンソンの薬物服用を明らかにした。

時間が経過するにつれて規模が拡大したKISTの専門研究部門が独立していった。現在の韓国電子通信研究院、韓国海洋科学技術院、科学技術情報研究院、生命工学研究院などがこのように生まれた。KISTが政府出資研究所の母胎ということだ。次々と研究所が設立されると、複数の研究機関を一カ所に集めて協同体を作ろうという構想が始まった。研究装備と施設を共同で利用し、研究員間の交流も促進し、シナジー効果を出そうという趣旨だった。こうして73年に「第2研究団地建設基本計画」が確定した。場所は忠清南道大徳郡(テドクグン)だった。78年、標準科学研究所をはじめ政府出資研究所と民間研究所が集まり、現在の大徳研究開発特区が形成された。

2025/11/04 15:32
https://japanese.joins.com/JArticle/340608

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