時に叱咤し、時に包み込んだ…激動の韓国とともに歩んだ宗教(1)

投稿者: | 2025年11月13日

◇「大韓民国トリガー60」㊾ 大宗教社会

宗教はこの世を超えた真理を追求する。しかし「地上の宗教」は、煩雑な俗世と離れて存在することはできない。宗教も社会と交流しながら、さまざまな表情を見せる。韓国の宗教は特にそうだ。激動の現代史と歩調を合わせるようにして時代の曲折を歩んできた。

 解放後、韓国社会には激しい波が押し寄せてきた。韓国の宗教もその荒波を避けることはできなかった。一言で言えば、産業化の陰を慰め、民主化の熱望を抱きとめた。時には政治状況に敏感に反応することもあった。

韓国は世界でも珍しい多宗教国家だ。長く信仰されてきた仏教の文化圏へ、朝鮮後期にキリスト教が流入し、開化期には民族宗教も興り、「宗教博物館」の様相を呈した。一方で、宗教間の紛争や対立が大きく表面化することは少なかった。2024年現在の韓国の宗教人口(韓国リサーチ調査)は、プロテスタント20%、仏教17%、カトリック11%で、宗教を持たない人が51%だった。

解放直後の韓国宗教は「微弱」という表現がふさわしかった。正確な統計はないが、学界では当時、全人口のうち宗教信者は10%未満とみている。半数近くが宗教を持つ現在の状況と比べれば、5分の1にすぎない。日帝は神社参拝を拒否した宗教人を投獄するなど弾圧したため、当時韓国宗教は衰退していた。

解放後の政局と李承晩(イ・スンマン)政府時代には、プロテスタントとカトリックを含むキリスト教が急速に成長した。北朝鮮のキリスト教信者は迫害を逃れて38度線を越えた。韓国戦争(朝鮮戦争)が起こる前までに、北朝鮮のプロテスタント信者約20万人のうち7万〜10万人が南下した。米軍政と李承晩政府は、彼らの宗教活動を後押しし、自由民主体制の優越性を示そうとした。米軍政もまた、米国人宣教師を通じて韓国に関する情報を収集した。自然の流れでキリスト教系の多くの人々が軍政に参加することになった。

◇クリスマスに続き釈迦誕生日も祝日に

仏教徒の方がキリスト教徒よりも多かった1949年に、クリスマスが休日となった。李承晩大統領がキリスト教徒だったことも無関係ではない。戦争中の1951年には「軍宗制度」が導入され、軍の中に牧師や神父を置いて宗教活動を行わせた。軍人のうちキリスト教徒の割合は、制度導入時の5%から5年後には15%に増えた〔姜敦求(カン・ドング))『米軍政の宗教政策』〕。

仏教はこうした恩恵を受けられなかった。釈迦誕生日が休日になり、軍僧制度が導入されたのは朴正熙(パク・チョンヒ)政権に入ってからのことだった。キリスト教は戦後復興のための援助物資や教育・医療機関の運営にも積極的だった。

この時期、仏教は混乱と対立を経験した。その火種は日帝がまいたものだった。日本は韓国仏教を日本化しようとした。親日的な住職を任命し、僧侶の結婚を奨励して妻帯僧を増やした。光復後、韓国仏教は二つに割れた。結婚した妻帯僧と独身の比丘僧の争いだ。韓国仏教の伝統を回復しようとする比丘僧と、寺院を奪われまいとする妻帯僧が衝突した。

李承晩大統領が寺の庭先に赤ちゃんの布おむつが干してあるのを見て驚き、「これは何だ」と尋ねたという逸話もある。日本のように妻帯僧が多いと聞いた李承晩は、1954年から7回にもわたって「仏教浄化」を内容とする諭示(国民に訴える文書)を発表した。「妻子を持つ者は僧侶ではないゆえ、寺院を去れ」という文言まであった。その後、韓国仏教は比丘僧中心の曹渓宗(チョゲチョン)が主導権を握り、1970年には曹渓宗と太古宗(テゴジョン、妻帯僧系)に宗派が正式に分かれた。

朴正熙・全斗煥(チョン・ドゥファン)政権期には、産業化と民主化が宗教成長の養分となった。1960年代の産業化政策で農村人口が大量に都市に流入した。移住者たちは生存競争の中で相対的剝奪感を抱くようになった。低賃金と劣悪な労働環境、貧富の格差は不安と不満を増幅させた。慶熙(キョンヒ)大学のソン・ジェリョン特任教授(宗教社会学)は「剝奪感を癒やしたり補償したりできる資源を教会が提供した」とし「一種の避難所であり、共同体的役割を果たしながら教会は急成長した」と語る。プロテスタントはまた、労働問題の解決を目指して現場に飛び込み、「都市産業宣教」活動を展開した。

プロテスタント信者数は1960年代初めの74万人から1980年には718万人へと、同期間に教会数は6800から2万1200へと急増した(ユン・スンヨン『現代韓国宗教文化の理解』)。1990年代初めには、汝矣島純福音教会の信者数が70万人に達し、「世界最大の単一教会」としてギネスブックに登録されるほどだった。

カトリックはカトリック農民会を中心に農民運動を展開し、民主化運動でも大きな役割を果たした。その中心に「時代の師」として仰がれた金寿煥(キム・スファン)枢機卿がいた。1987年6月抗争(6月民主抗争)の際、ソウル明洞(ミョンドン)聖堂に追い込まれたデモ隊を追って来た警察に対し、「私を踏んで行け」と言って立ちはだかった。明洞聖堂は民主化運動の聖地となった。今でも「韓国カトリックは金寿煥枢機卿以前と以後に分かれる」と言われるほどだ。

2025/11/13 14:11
https://japanese.joins.com/JArticle/340994

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