朴槿恵(パク・クネ)弾劾で姿を現した者たちがいる。両手で太極旗と星条旗を振る人、黒いサングラスをかけ軍服を着た人、「ハレルヤ」を叫びながら暴言を吐く人。彼らは尹錫悦(ユン・ソクヨル)の登場以降、青年層とユーチューバーへと勢力を拡大したかと思えば、あげくの果てに12・3内乱を前後して暴力に走り、弾劾後も光化門(クァンファムン)広場を自分の家のように使って「ユン・アゲイン」を叫んでいる。
マスコミや政界は、尹錫悦と彼らを「極右」と呼んでいる。しかし、極右とは果たしてふさわしい名なのだろうか。日本の極右勢力は天皇主義、国粋主義、軍国主義を標ぼうする。米国の極右はキリスト教原理主義、白人優越主義、覇権主義の組み合わせだ。彼らの語る理念には多少偏差があるが、民族的、人種的優越を主張して外国人を嫌悪し、地域または世界的レベルで覇権を追求するという点は同じだ。しかし、周辺の大国を救世主のように考えて屈従的な態度を示す韓国の極右は、果たして民族的優越と覇権主義という意味での極右なのだろうか。
一部では、韓国の極右をファシズムと規定している。ファシズムとは、外見上カリスマ的な指導者と広範な大衆が一体となって作り出す強力な権威主義的政治体制のことを言う。そのような一体化は民族的または人種的な同質性、内部や外部の敵に対する敵対意識、失われた過去の栄光を蘇らせようという神話的熱望などを通じて作り出される。韓国の極右が示す過去の独裁体制に対する郷愁、共産全体主義勢力と中国に対する敵対意識は、まさにファシズム的要素だと解釈しうるが、それをファシズムと規定するには何かが足りない。
ファシズムとは倫理や価値意識がまひし、ひたすら目的を達成するために手段と方法を選ばず、社会構成員を道具のように利用する「道具的合理性」が極端化した政治形態でもある。しかし、太極旗と星条旗を振る人々が示す狂気と呪術的世界観は、合理性どころか、強者には自虐的に服従し、弱者には加虐的な暴力を行使するサド・マゾヒズム的症状のようにみえる。
今月13日に開催された「12・3戒厳事態以降、韓国民主主義の未来」と題する学術大会でイ・ジソン博士が発表したヘーゲルの「賤民」概念に関する論文は、韓国極右を理解するうえで大いに示唆するものがある。賤民という単語は貧しくて身分の低い人を思い起こさせるが、ヘーゲルの言う賤民とは「賤民的心性」を持つ人のことだ。裕福な人の中には富と成功を一種の特権的「権力」のように感じつつ、自身はあたかも法の適用対象ではない法秩序の外の存在のように認められることを望み、すべての社会的義務を放棄する一方で、逆説的に自身を主人のようにたてまつるよう社会に要求する人がいる。貧しい人の中には社会から捨てられたと怒りを抱きつつ、自身は法秩序の外の存在であるかのようにすべての社会的義務をないがしろにする一方で、逆説的に何ら努力もぜず、すべて責任を取ることを社会に要求する人がいる。賤民とは、このように自身は法秩序の外にいると考えることで、すべての社会的義務を放棄しつつ、社会的特恵のみを望む人のことだ。
韓国の極右は賤民に似ている。尹錫悦政権を形成した学閥権力層は、まるで豊かな賤民のように、法秩序の外の超法規的存在であるかのように、民主的な法秩序を傷つけておきながら、あらゆる特権を享受し、この国の主のように振る舞う。過去の軍部独裁に追従する勢力は、まるで貧しい賤民のように、民主化した大韓民国に剥奪感を抱き、それに怒りを抱くだけでなく、社会的義務をないがしろにし、他人の自由と人権すらも傷つけようとする。しかし、実際には彼らは何の貢献もせず、民主化の果実のみを得ようとする。
彼らは日本や米国の極右のように民族的、人種的な優越を主張する覇権主義者でもなく、カリスマ的指導者に服従し、失われた栄光を取り戻そうとして、社会の構成員全体を道具的合理性によって再組織しようとするファシストでもない。だから、「政治的賤民主義」という新たな概念で彼らをみるべきなのではないだろうか。
2025/12/17 19:27
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