「軍の『慰安婦』募集でも日本と植民地で差別あった」

投稿者: | 2025年12月19日

 「金学順(キム・ハクスン)さんの映像を初めて見たのは1991年11月ごろのことです。日本にいらっしゃったのかNHKの取材を受けていたのか(よく覚えていませんが)、金さんを初めて見たのはテレビの画面でででした。その時、自分が被った被害を訴えながら『こんなことがあったということを日韓の若者たちに知ってほしい』とおっしゃっていました。それを見て、それを支えることこそ歴史家の仕事だと思いました」

 日本の中央大学の吉見義明名誉教授(78)は、自身が日本軍「慰安婦」だったことを初めて公に明らかにした金学順さん(1924~1997)の訴えから本格的に始まった過去35年の「慰安婦運動史」の中で、非常に独特な位置を占めている。同氏が同年12月に防衛庁(現在の防衛省)防衛研究所図書館で発掘した6件の公文書によって、日本軍が慰安婦の募集過程に直接深く介入していたことが初めて立証されたからだ。それらの文書のことは1992年1月11日に朝日新聞に報道され、それから5日後の16日に宮沢喜一首相は盧泰愚(ノ・テウ)大統領と会い、この重い歴史的事実について重ねて謝罪せざるを得なかった。そのような意味で、慰安婦問題の真実を明らかにするために韓日の市民社会が乗り越えてきた35年の歳月は、吉見名誉教授個人にとっても自身のすべてをかけた長い闘争の時間でもあった。

 日本国内で本格的な慰安婦研究の扉を開いた吉見名誉教授が、韓国の「正義記憶連帯」と日本の「Fight for Justice」が18日にソウルグローバルセンター国際会議場で共催したシンポジウム「日本軍性奴隷制問題の解決に向けた35年の研究の成果と対抗記憶の未来」に出席するために訪韓した。同氏はシンポジウムの前にハンギョレのインタビューに応じ、「1995年の著書『従軍慰安婦』が出て以降のこの30年間の追加研究の成果を総合した新たな著書『日本軍慰安婦』(岩波書店)を7月に出版した」として、「同書の内容と今後の課題についてお話しするために訪韓した」と語った。

 同氏にとってこの35年間はどのような意味を持つものだったのだろうか。「当時(1980年代~1990年代初め)は、慰安婦制度というのは(日本)軍が作ったものではなく、民間業者が勝手に作ったものだという理解がかなり一般的に広がっていました。軍が作成した公文書があるとは誰も思っていませんでした」。40代の日本現代史の研究者だった吉見名誉教授はその頃、日本軍が中国で繰り広げた毒ガスを用いた化学戦などについて研究していた。「米国への留学(1989~1991)前に防衛研究所で毒ガスに関する資料を探していたところ、軍慰安所の設置を指示する資料を偶然見つけたことがありました」。キムさんの証言を聞いた吉見教授は、さらに積極的に資料を探し始め、1938年3月4日に旧陸軍省が作成した「軍慰安所従業婦等募集に関する件」などの6件の文書を発見した。この文書には、慰安婦を募集する際には派遣軍が統制すること、募集業者を徹底して選定すること、現地の憲兵や警察と緊密に連係すること、などの内容が記されていた。「すごい内容だと思ってコピーを取りました」。朝日新聞にそれに関する記事が掲載された後、日本政府の調査が始まった。結局それは、「『慰安婦』は軍の『関与』の下、本人の意思に反して募集された」ことなどを認めた河野談話(1993)へとつながる。

過去30年間の韓日の研究成果を総合して出版「日本では満21歳以上しか募集されていないが朝鮮や台湾では21歳未満でも連れて行かれた日本が批准した国際条約が差別適用されたため」「41年に対ソ戦に備えて3千人の女性が朝鮮から満州に移送されたという証言も」日本軍が「慰安婦」募集に関与した文書1991年に発見、日本の首相の謝罪引き出す

 新刊では、韓日の研究者による新たな研究の成果を総合して、慰安婦制度を作ったのは日本国家だったことを以前よりさらに明確に究明した。とりわけ日本、朝鮮、台湾、中国、東南アジアなど、各地域の募集の特性などを細かく区分して記述しているのが目を引く。そのことによって自然と浮かび上がるのは、本土日本と植民地との間に存在する厳然たる「差別構造」だった。

 例えば、日本では内務省警保局長が1938年2月23日に送った通達「支那渡航婦女の取扱に関する件」で、日本で慰安婦を募集する際には、すでに性売買に従事したことがあり▽満21歳以上で▽性病などその他の伝染性疾患にかかっていない者のみを海外渡航させていた。この通達にもとづき、1938年11月には第21軍司令部と陸軍省の要求に沿って、日本から400人の女性が中国広東省にある軍慰安所に移送されている。日本政府が様々な制限を加えたのは、1925年に「人身売買に関する国際条約」を批准していたからだった。

 しかし日本政府は「この条約は朝鮮、台湾などの植民地などには適用しない」と宣言していた。この「差別構造」によって朝鮮からは、日本と異なり21歳未満の性売買の経験を持たない女性も、主に「就職詐欺」などの手法によって慰安婦として連れて行かれることになる。新刊では、1941年の対ソ戦に備えた「関東軍特種演習」に合わせて、朝鮮から約3000人の朝鮮人女性が満州地域に移送されたとする証言なども紹介されている。同氏は、朝鮮でこのような大量動員が「どのように行われたのかなどを解明することが今後の課題」だとして、「警察または行政機関を動員しなければ、このような徴募(強制募集)は不可能だっただろう」と述べた。

 次に力を注いだのは、日本軍慰安婦制度が日本政府の否定とは異なり「性奴隷制」だったということを明確に立証することだった。「軍慰安婦制度は、1926年の奴隷条約が規定している定義にぴったり当てはまります。彼女たちには居住の自由と外出の自由がありませんでした。外出するには軍の許可書が必要でした。また、性の相手を拒否する権利はありませんでした。働きたくなければ辞める、つまり廃業の自由がなければなりませんが、それもできませんでした。このような日本軍の規定と被害者の証言の両方をみれば、軍慰安婦制度は性奴隷制だったと言わざるを得ません」

 だが、日本政府の抵抗は続いてきた。2007年には「軍や官憲による強制連行を示す資料は発見されなかった」という主張を閣議決定。2015年12月の韓日慰安婦合意では、被害者が絶えず求めてきた「法的責任」を遂に認めなかった。2021年には、教科書に「従軍慰安婦」という言葉を使うのは不適切だと決定した。

 吉見名誉教授は「日本政府は自らの責任を認めていないが、私たちはどんなことがあったのかを記憶し、言い続けていかなければならない」と語った。「河野談話で日本政府が約束したように、歴史研究と歴史教育を通じてこのような問題を永遠に記憶し、同じ過ちを決して繰り返さないようにしなければなりません」

2025/12/18 18:54
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/55006.html

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