【コラム】「韓国の嫁」の手料理を味わおうと観光バスを貸し切り…日本の山村にある「小さな韓国」(1)

投稿者: | 2025年12月22日

今月18日、東京駅から山形県に向かう新幹線に乗って約3時間。終点の新庄で下車し、さらに車を20分ほど走らせると、人口およそ3700人の戸沢村を貫く一本の川が迎えてくれる。日本三大急流の一つに数えられる、全長約230キロの最上川だ。

蛇のようにくねる最上川を見下ろす低い丘の上には、どこかで見たことのある軒先や瓦、丹青で彩られた建物が建ち並んでいる。高麗館だ。国道47号線沿いに位置するこの施設は、韓国で言えば道路休憩所にあたる、日本の「道の駅」だ。

 広い駐車場に隣接する食堂へと足を運んだ。看板には日本語で「本場・韓国の味、韓流食堂」と書かれている。食欲をそそるチヂミの香りが立ち込める店内では、数人の客が石焼ビビンバやのり巻き(キムパプ)、チヂミを口に運んでいる。大型の案内板には、韓国語・英語・日本語で書かれた高麗館の紹介文が掲示されている。

「飲食文化館、民族文化館、遊びの広場、休憩所・戸沢の駅舎、土砂災害資料館などが配置されています。悠久の歴史を刻む最上川の流れが、古代韓半島文化のルーツを探る過程を通じて、友好親善交流の幅をさらに広げることができると考えています」

階段に向かうと、今度は愛嬌のある表情のヘテ2体が迎えてくれる。巨大な竜が彫られた階段を上ると、「高麗館」と書かれた扁額を掲げた建物が現れた。この扁額は、38年間にわたり韓日関係の構築に尽力した故・金太智(キム・テジ)元駐日大使(1935~2025)の揮毫(きごう)によるもので、韓国で制作されて持ち込まれたものだ。

軽快なK-POPが流れる館内は、「ここは本当に日本なのか」と見まごうほど韓国の商品であふれている。キムチや6年根紅参飲料はもちろん、赤いゴム手袋、韓国焼酎やラーメン、アルミ鍋、BTS(防弾少年団)の写真まで、漏れなくそろっている。旅の途中で道路を走っている時に韓国風の建物が目に留まり立ち寄ったという若い夫婦は、「韓国の商品を気軽に手に取れるのがいい」と、楽しそうに商品を見て回っていた。

売店を抜けて長い廊下を進むと、韓国料理店「コリィナ(Colina)」へと続き、その一角には韓服体験コーナーが設けられている。道の駅「とざわ」の駅長、土田文子さんはさまざまな韓服を見せながら、「もっとたくさんの人が韓国文化を体験できるよう、韓服を増やす予定」と説明した。

なぜ日本の小さな村に高麗館が建てられたのだろうか。戸沢村の加藤文明村長は、その理由として「草の根国際交流」を挙げる。1985年から韓国・忠清北道堤川市松鶴面(チュンチョンブクド・ジェチョンシ・ソンハンミョン)との交流を始めたのに続き、同じ時期に後継農業者の減少に悩んでいた村が、みずから農村独身男性の結婚支援運動に乗り出したことがきっかけだった。その結果、韓国やフィリピンからの嫁が増え、とりわけ韓国の嫁が最も多かった。一時は70人にも及ぶ韓国人嫁が暮らすようになり、自然と文化交流のスピードも速まった。腕に自信のある嫁たちがキムチを漬け、韓国料理を作って売り始めたのが始まりだった。

1988年のソウルオリンピック(五輪)翌年に戸沢村へ嫁ぎ、2人の子どもを育てた大友淳浩(オオトモ・スノ)さん(64)も、高麗館設立初期を共にした一人だ。大友さんは「韓国の嫁が増えるにつれ、日本人は高麗のことをよく知らないから、高麗を紹介しようという話になった」と語る。さらに「当時、韓国との文化交流に積極的だった村長が、川沿いの丘陵地に高麗時代の宮殿を模した高麗館の建設を推進し、計画が動き出した」と振り返る。約3万6000坪に及ぶ敷地に投じられた当時の建設費は、韓国ウォンにして約100億ウォン(現レートで約11億円)相当。5年に及ぶ工事を経て1997年に高麗館が開館し、村の活性化を担う拠点となった。

2025/12/22 15:55
https://japanese.joins.com/JArticle/342477

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