【コラム】アジアであることを拒んできた日本のジレンマ(2)

投稿者: | 2025年12月26日

日本の近代史が、常に脱亜の方向だけで進んだわけではない。興亜を掲げたアジア主義が頭角を現した時期もあった。とくに満州事変をきっかけに日本が国際連盟を脱退した1930年代がそうだ。アジア諸国と連帯し、欧米帝国主義の侵略に対抗すべきだという大義名分ではあったが、その本質においては、日本を中心とした“日本版”華夷秩序構築という構想が骨格を成していた。しかし、脱亜論であれ興亜論であれ、いずれも膨張主義と結びついていたという点で、アジアは依然として対外拡張欲望の対象だった。結局、ユーラシア大陸の両端に位置し、アジアを再構成して政治的・文化的に威圧してきた二つの膨張勢力が、太平洋戦争を通じて東南アジア各地を戦場としたのは、必然の成り行きだったのではないか。

敗戦後、文化国家を掲げた日本は米国との同盟体制の下で、欧米との関係を強化した。経済復興に邁進した末、世界第2の経済大国となり、西側先進国G7の一員となった。日本のアジアへの関心が特に大きくなったわけではないが、経済大国・日本を中心とした地域国家間の分業体制が形成された。いわゆる「雁行モデル」だ。雁が群れをなして飛ぶ姿は、上下が逆になったV字型だ。日本が先頭を飛び、その後ろを韓国・台湾・香港・シンガポールといったアジアの四龍が続いた。そのさらに後ろには、タイ・ベトナム・マレーシアなどASEAN(東南アジア諸国連合)諸国がいた。誰もが記憶している1970~80年代の東アジア地域の産業発展モデルだ。力を誇示できた過去とは性格が違ったが、日本はアジアの盟主としての地位をほぼ一世紀にわたり維持してきたといえる。

 しかし1990年代以降、中国が国際分業体制に参加し、韓国や台湾などが一部の先端産業で日本に追いつき、あるいは追い越すようになると、雁行モデルは崩壊した。これは日本の自己アイデンティティの危機を意味した。同時に「失われた30年」といわれる苦難の時期も訪れた。

◇中心志向がもたらした弊害

多和田葉子という日本の作家がいる。20代でドイツに移り住み、その後40年以上、日本語とドイツ語で小説・詩・戯曲を発表してきた経歴を持つ作家だ。日本とドイツの言語・文化に精通しているが、あえてどちらにも帰属することを拒む「精神的亡命者」を自任する。彼女の文章には、西洋人の二分法的思考をひねって批判するくだりがしばしば登場する。–「はっきりとは言えないが/私たちはもう/それなしでは生きていけない」。アジアがなければ、欧州人は自分たちのアイデンティティを保てない、ということだ。多和田がこの詩を書いてからおよそ40年が経った今、西洋人が軽蔑していた「アジア的前提」の本山である中国は、最先端技術と産業力で西洋を脅かし、世界を米中二極体制へと再編している。彼らは、何百年にもわたって見慣れてきたアジアがもはや存在しない世界を生きなければならないのだ。

日本も同じだ。いまや中国だけでなく、かつての植民地だった韓国・台湾との間でも、厳しい先頭争いに追い込まれている。模範生として、盟主としての優越的な自己像を映し出してくれた「アジア」という名の鏡は、もはや存在しない。アジアの再定義が必要であり、それは究極的には自己の再定義でもある。日本は自らの姿を、アジアと西洋という二枚の鏡に交互に映しながら、自分の位置を確立してきた。どちらの鏡であれ、中心志向という角度から最も肯定的に映る自己像を追い求めてきたのだ。中心志向の心理は人間すべてに普遍的なものだが、それがもたらす弊害は大きく、そして持続的だ。

ユン・サンイン/前ソウル大学アジア言語文明学部教授

2025/12/26 15:09
https://japanese.joins.com/JArticle/342670

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