平均寿命は44歳だった。1歳以下の乳児の死亡率は1000人あたり102.4人、インドに継いで世界2番目に多かった。13歳以上の77%は読み書きができず、7人に1人(15%)は失業者だった。就業者の80%は農林漁業に従事した。農業従事者の3分の2(67.2%)は小作農だった。輸出品の40%が干しイカだった(『統計で見る解放前後の経済・社会像』、旧統計庁)。
1945年の解放直後の韓国の自画像だ。持つものがないため税金も少ない。国家財政で租税収入の比率は15%にすぎなかった。韓国の電力自給率は32%、残りは北朝鮮が送った。主権がなかった米軍政時代、政治は混乱していた。45年9月から47年4月までテロは311件発生した。28人が死亡し、731人が負傷した。
すぐに戦争が始まった。国全体が奈落に落ちた。世界最貧国になった。廃虚となったソウルを訪れたマッカーサー将軍は「この国が再起するには少なくとも100年はかかるだろう」と悲観した。米国側は「援助金で工場を作るより必要な消費財を日本から購入するべき」と勧めた。英日刊紙ザ・タイムズは51年10月1日付でこのように書いた。「廃虚となった韓国でまともな民主主義が芽生えることを望むより、ゴミの山からバラの花が咲くことを願う方が合理的だ」。
暗鬱な世界は60~80年代まで続いた。60年代後半、韓国が総合製鉄所を建設すると明らかにした時、世界銀行の諮問役ジョン・ザフィ博士はザ・タイムズの記事を再引用した。「韓国が総合製鉄所を作るのはごみ箱でバラを咲かせようとするものだ」。 80年代初期、米日が掌握していた半導体産業に参入すると発表した当時、嘲笑が返ってきた。
しかし大韓民国は奇跡のように立ち上がった。米時事メディア「USニューズ&ワールド・レポート」は2025年、経済・外交・文化・国防力などを総合した韓国の国力を米国・中国・ロシア・英国・ドイツに次ぐ6位とした。フランス(7位)、日本(8位)を上回った。まさに桑田碧海だ。
韓国の成就は革命的だった。戦争が終わった53年に477億ウォンだった国内総生産(GDP)は昨年2560兆ウォン(約278兆円)と、約70年間に5万3600倍に増えた。80年代に熟した市民意識は軍事政権を終わらせ、この地に民主主義の花を咲かせた。最近、韓国の半導体は21世紀の人工知能(AI)時代を支えている。韓国戦争(朝鮮戦争)当時に戦車1台もなかった我々は世界5位の軍事強国に成長し、トランプ米政権は造船業復活のパートナーに韓国を選んだ。
さらに驚くべき点は文化パワーだ。今年の米ハロウィンは「KPOPガールズ! デーモン・ハンターズ」のキャラクターで埋まった。ブラックフライデーにアマゾンショッピングモールのビューティー商品販売1~3位はすべて韓国ブランドだった。BTSに続くアイドルグループStray Kidsは今年、8枚のアルバムがビルボードチャート1位になった。米国ではこうした漫談までが登場した。「アルファベットKを韓国人が持っていった。K-POP、Kドラマ、Kバーベキュー…信じられない、白人優越主義が崩れている。もうすぐKKKもコリアン、 コリアン、コリアンになるだろう」(コメディアン、アンドリュー・オロルフォ)。
中央日報が光復(解放)80年、創刊60年を迎え「大韓民国トリガー60」シリーズを企画した背景だ。今日の韓国の成就と課題を幅広く振り返った。経済開発5カ年計画をはじめ、農地改革、韓米同盟、ポニーと半導体神話、義務教育実施、ソウルオリンピック(五輪)と2002ワールドカップ(W杯)など多くの決定的な契機(トリガー)を扱った。
韓国は第2次世界大戦後に独立した国のうち唯一、先進国入りした。「奇跡」という2文字に納めるにはあまりにも多くの峠と危機を経験しながら突っ走った。根底にある核心の動因は何か。鄭周永(チョン・ジュヨン)現代グループ創業会長の回顧録『この地に生まれて』にはこう書かれている。「『漢江(ハンガン)の奇跡』の中に『奇跡』はない。ただ、誠実で賢い労働があるだけだ」。
韓国人は狂ったように働いた。2000年代初期まで経済協力開発機構(OECD)国家のうち勤労時間が最も長く、睡眠時間は最も短かった。ドルを稼ぐために西ドイツの炭鉱、ベトナムのジャングル、中東の砂漠に行った。
2025年の我々を形成した土台は逆説的に韓国戦争だ。戦禍で崩れた身分・階層社会で新しい機会を見つけようとする熱望と絶対貧困から抜け出そうとする意志が作動した。教育の熱意がエネルギーを提供した。高麗大のホ・テギュン教授(心理学部)は著書でこのように診断した。
「日帝強占期と戦争を経て我々に残ったものは生存の欲求、貧困に対する恐れ、物質的豊かさに対する欲望だった。『私を無視するのか』という韓国人の自尊心に、自分が属する集団を家族のように考える家族拡張性が加わった。国民が家族のように団結して良い暮らしをするという目標に向かって、後ろ水に物質的豊かさとそれをもたらす技術と産業に狂ったように没頭した」。
特有の教育の熱意は労働の効率性を高めた。砲火の中でも学校は中断しなかった。「良い暮らしをする」というスローガンの実体は、自分の子どもをよく教育して「自分よりも良い暮らしをさせる」ことだった。60~70年代の産業化は、指導者の強力なリーダーシップを後押しする良質の労働力のおかげだった。
韓国戦争は最大の悲劇だった。二度と戦争を経験しないために軍事力と経済力を高めなければならなかった。選択は米国だった。民主主義と市場経済を主導した米国との同盟体制が激変の北東アジアを解決していく羅針盤の役割をした。「アジア国家は自ら安保の責任を負うべき」という「ニクソン・ドクトリン(1969)」と在韓米軍の一部の撤収はさらに強い刺激剤になった。
2025/12/26 15:51
https://japanese.joins.com/JArticle/342675