「この追悼碑がなぜ建てられ、なぜ破壊されたのかを、私たちは語っていかなければなりません」
今月31日、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」。「戦後80年を問う群馬市民行動委員会」の加藤昌克共同代表は、芝生が生い茂る「群馬県朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑」(朝鮮人追悼碑)跡で無念さを語った。同氏は「もはや目で見ることができなくなった追悼碑が作られ、なくなったことを語ることで、私たちは『永遠の記憶の装置』を作ることができる」と話した。
日帝強占期に群馬県で犠牲になった強制動員の朝鮮人被害者を追悼するために志ある日本の市民が数十年にわたる尽力の末に建てた追悼碑が、粉々にされたのは2024年1月29日のこと。当時、日本のメディアがヘリコプターを飛ばして撮影した撤去シーンを確認すると、重機が追悼碑だけでなくコンクリートの基礎まで粉々にする様子を見ることができる。追悼碑の表に韓国語、日本語、英語で刻まれていた「記憶 反省 そして友好」という文言、裏に「わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し」という文言もすべて粉々にされた。
追悼碑撤去から2年を迎えて開催されたこの日の行事には、拡張現実(AR)アプリによって追悼碑が現場によみがえった様子を見ることができた。スマートフォンのアプリをオンにして追悼碑のあった場所をカメラで映せば、画面の中で「合成グラフィック」として追悼碑が市民の前にリアルタイムで現れるのだ。この日も100人あまりの市民がこのアプリで追悼碑のそばで写真を撮り、無念の気持ちを慰めた。市民行動委員会は「追悼碑は撤去されたが過去の真実と記憶、この場所そのものを消し去ることはできない」として、「人々の心の中に追悼碑は存在し続けるだろう」と説明した。追悼会の終了後には、群馬の森の朝鮮人追悼碑撤去問題を扱ったチェ・イェリン監督の16分の短編ドキュメンタリー「森、すきま」が上映された。
追悼碑建設は、1998年に日本の市民が「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」を結成することで推進が開始された。太平洋戦争当時、群馬県には日本軍の工廠である岩鼻火薬製造所、軍用射撃場、中島飛行機の地下工場などがあった。強制労働させられた朝鮮人は6千人にのぼり、300~500人ほどが亡くなったと推定される。市民団体側はこのような意味を込めて「群馬の森」内への追悼碑設置要請書を群馬県知事に提出し、当時は県議会が10年の期限をつけて建立に全会一致で同意した。直径7.2メートルの円形のコンクリートの上に、4.5メートル×1.95メートルの碑石などで構成された追悼空間が2004年4月に完成した。「記憶 反省 そして友好」の追悼碑と名付けられた。
しかし、設置期間の延長が必要となった2014年を前に、右翼団体の攻撃がはじまった。右翼は、一部の市民が追悼行事で「朝鮮人強制連行」などに言及したことについて、当初の「政治的発言」はしないという約束を破ったとし、追悼費撤去を県に迫った。強硬保守の安倍晋三政権が「後ろ盾」となった。同年、県議会は右翼団体の請願をそのまま採択した。その後の8年間の法廷闘争で、市民団体側は一審で勝訴したものの、二審の東京高等裁判所と三審の最高裁判所が「追悼碑撤去」判決を下した。
朝鮮人強制動員などに関する追悼碑は日本全域に170カ所あまりある。日本の地方自治体が右翼団体の圧力で追悼碑を撤去したのは、群馬の例が初だという。そのうえ、日本社会に右翼的な考えが広がり、このような動きが強まることが懸念される。最近、韓日両政府は長生炭鉱の朝鮮人犠牲者らの遺骨のDNA鑑定で協力することを決めたが、依然としてほとんどの歴史問題は放置されている。佐渡鉱山の追悼式が朝鮮人犠牲者と遺族を排除して行われているのが代表的な例だ。右翼団体による、東京の横網町の関東大震災朝鮮人虐殺追悼碑と石川県の尹奉吉(ユン・ボンギル)義士暗葬之跡(墓碑)の撤去の動きも続いている。この日の行事に参加した東京平和運動センターの林健副議長は「日本社会が(歴史問題で)悪い方向に進んでいる現実を何とか解決しなければならない」と強調した。
2026/02/01 10:46
https://japan.hani.co.kr/arti/international/55341.html